大阪学院大学国際学部 三輪信哉
☆1☆
私事で恐縮である。私は生まれてからこの方、琉球大学にいた20代から30代の10年を除き、淀川左岸沿いの大阪市の赤川という町に住んでいる。
祖父が大正時代に岐阜の山奥から出てきてこの地に工場を構えて100年が過ぎようとしている。振り返って見れば、私の人生の日常の大半は淀川とともにある、といってもよいかもしれない。
祖父がこの地に居を定めたのは、当時周辺は水田だらけで、淀川の支流の小川がそこここにあり、土地が安く、水を利用した工場を営むためであった。戦前は南方で使う蚊帳の生地の晒し業で大いに成功したようである。戦後も水を利用しての金属メッキに仕事を変え、周辺の小川に廃液を流してもいた。メッキに使う重金属の濃度を味で見る、という今からは想像もつかないありようで、祖父が65歳で食道癌で亡くなったのも無理はない。
私の幼少の昭和30年代には工場はやめていたが、淀川は私の絶好の遊び場だった。まだ小学校に上がる前、淀川で溺れ掛けてずぶ濡れになって家に帰った記憶がある。台風が来たときには川幅600メートル一杯が濁流と化し、堤防すれすれまで増水し家の屋根が流されてくる様を何度も見た。当然川の水面が家屋の地面よりはるかに高くなり、庭のあちこちからシュウシュウと音を立てて水が吹きだし、上流の氾濫で床下浸水を何度も経験した。そのような濁流もやがて水位を下げると、葦原の根元をぬって透き通った水が流れ、日頃は見ないような魚やエビを見るのが楽しみだった。今の温暖化の時代と違って、昭和40年ごろでもワンドの池が凍って諏訪湖の御神渡りさながらに割れて盛り上がる光景も何度かみた。また今でもそうだが、午前8時ごろになると、旧淀川から「コウモン」を通過して、何隻も砂利採集船が上って行き、午後には仕事を終えて砂を満載し、水面すれすれに船体を沈めて下っていく。
三輪先生写真1.jpg

(写真1)毛馬閘門下流の大川で停泊する砂採取船

「コウモン」とは「肛門」。そう思っていた本当の意味がわかり、また「ワンド」がどれほど大事なものであるかを知ったのは、大学に入って水資源工学研究室に所属し、末石冨太郎先生のもとで学ぶようになってからだった。幼少の頃からの体験の断片が一気にモザイク画のように意味ある理解の対象となった。
自宅から下流、堤防を歩いて半時間ほど下ったところに、まっすぐに大阪湾にそそぐ新淀川から、南に分流して、旧淀川が大阪都心を流れていく。そこにあるのが「毛馬閘門」である。
三輪先生写真2.jpg

(写真2)毛馬閘門

☆2☆
大阪市北区と都島区の境にある淀川河川公園長柄河畔地区は、新淀川から旧淀川(大川)が分岐する位置にある。昭和49年(1974)に新造された「淀川大堰」と「毛馬閘門」があり、旧淀川に流れ込む水量を調節し、船運の便を図っている。

三輪先生写真3.jpg(写真3)大川からみる現在の毛馬閘門

三輪先生写真4.jpg(写真4)新淀川の淀川大堰、手前は大川への分岐

明治時代に大規模な洪水が相次ぎ、甚大な被害を及ぼしたため、政府は淀川の大改修工事に明治29年(1896)着手。大川が毛馬で中之島に向け、南に大きく折れる位置から直線的に大阪湾に注ぐ新淀川を開削(16㎞)し、その一環として、明治40年(1974)に毛馬閘門、同43年(1910)に洗堰が建設された。当時の旧第一閘門と旧洗堰が平成20年に国の重要文化財「淀川旧分流施設」に指定され、現在もその地で保存されている。

三輪先生写真5.jpg(写真5)保存されている旧毛馬閘門

桜の木々でうっそうとした公園には、当時の大改修を記念する、高くそびえたつ「淀川改修紀功碑」を中心に当時の大改修を行う時の工事基準面を示す「旧毛馬基標」や、大改修に尽力した銅像「工学博士沖野忠雄君之像」がある。開削時に方々から掘り出されたお地蔵様方をお祀りする「毛馬北向地蔵」の社もあり、また、元和6年(1620)年以降の大阪城再築の時に、廃城京都伏見城から運んだ城石を誤って運搬船から落としてしまった「残念石」も大改修時に引き上げられて、それらが石庭のように点在し置かれている。
当時のレンガ造りの閘門は使命を終えるまでの70年間、水位差のある新旧の淀川の往来を見守り、助けてきた。大川から遡上しようとする船を閘門は受け入れて、背後の扉を閉めると水位を上げて、新淀川と同じ水位になれば上流側の扉を開く。新淀川から大川に下るときもまた同じ。緩やかな水の流れのように緩やかに時が流れていく。何もかもがスピードを追求する世の中で、新閘門になって幾分かはその工程が早くはなったものの、毎日、数台の砂採取船がゆったりと往来し、かつてとほとんど変わりなく毎日朝に夕にと開閉が行われている。
芭蕉や一茶と並び称される与謝蕪村(1716~1784)の生地もこの場所(摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町))で、堤防の上には蕪村の「春風や堤長うして家遠し」を刻んだ蕪村生誕地を示す記念碑がある。また淀川河川公園と隣接して蕪村公園が併設されており、晩年の作である「春風馬堤曲」の俳句が刻まれた自然石を点在させている。蕪村は20歳ごろに上京するまでこの地で過ごした。62歳の時に門人に宛てた手紙で『余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候』と記しており、ゆったりと流れる大川を友達と眺める蕪村の姿が浮かぶ。
大改修を人間に迫るほど、時として大きな災難をもたらした淀川であるが、大半の時代、多くの人々に安らぎと豊富な恵みを与えて来たのも淀川である。

☆3☆
淀川は、度重さなる氾濫を繰り返し、洪水のたびに周辺地域に甚大な被害をもたらしてきた。
そこで明治30年(1897)から43年(1910)にかけて、淀川の改修工事が行われた。新淀川(摂津市-津屋~大阪湾河口)が開削され、新淀川と旧淀川(大川)の水量調整、ならびに大川への土砂堆積防止のため明治43年(1910)に毛馬洗堰が建設された。
淀川は、琵琶湖からの瀬田川・宇治川、京都からの桂川・鴨川、奈良県からの木津川が合流して大阪で淀川になる。利根川が16,840㎢で日本一広く流域内人口は約1,280万人に達する。淀川水系は流域面積こそ8,240㎢と全国第7位(利根、石狩、信濃、北上、木曽、十勝川に次ぐ)ではあるが、市街化面積が約1,500㎢、流域内人口が約1,179万人と、流域内人口密度でみると日本一ということになる。奔放に流れる淀川はじめ多くの府下の川を堤防内に押し込めることで、経済、人口を集中させてきた。
慶応4年(1868)に海外へと開かれた大阪港は、商都への飛躍をはかるために大型汽船の出入りが必須であったが、自然の河口を利用した河川港であり、河口の土砂堆積に悩まされていた。天然の良港である神戸港が経済を引き付ける中で、国際貿易のできる近代港湾の建設が求められた。
河川工学を学ぶものなら誰もが知るオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケ(1842―1913)が港湾計画を依頼され、明治20年(1887)に計画を作成。当初は築港の計画を依頼されたのだが、当時、測量といっても移動手段が乏しい中で、彼は淀川を流域として俯瞰的に捉えていた。淀川河口に直進させる放水路(新淀川)の開削による土砂の排除、中流域ではケレップ水制を用いた流路の蛇行と流路幅の制御による舟運の確保、さらに上流に遡り琵琶湖に流入する河川の砂防堰堤建設や植林事業。この流域全体を俯瞰的に見る考え方が、全国の主要河川にと後に広げられることになった。しかし、財政的にも制度的にも厳しく、明治29年(1896)の河川法の制定を待たねばならなかった。
明治時代、大阪は再々、淀川の決壊で多大な水害に苦しめられてきた。明治18年(1885)には枚方の堤防が決壊し、大阪市内では上町台地を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人に上った。デ・レーケが流域全体を見ての計画を立てたのもこの未曾有の災害によるものであったろう。しかもそれが日本の国土、河川の骨格の整備につながり、近代日本の発展の基礎を作ったといえるだろう。
明治30年(1897)に築港開始。デ・レーケの案を下地として明治27年(1894)、大阪土木監督所長・沖野忠雄(1854-1921)が内務省へ提出した淀川の洪水防御計画が、国直轄の淀川改良工事(明治30〜43年)となり、沖野の指揮のもと、工事が完了した。
現在、沖野忠雄は銅像として、毛馬閘門の傍らの堤防の上に立ち、淀川の遥か上流を見続けている。

☆4☆
昭和の時代にも、淀川流域では支流も含め、14回水害が発生し、平成27年(2015)の桂川の氾濫は記憶に新しい。今年、台風15号、19号と東日本で発生した甚大な水害は多くの人命を奪い、多大な損失をもたらした。亡くなられた方々のご冥福を祈り、被災された方々の一日も早い復興を祈念するばかりである。一方、川との関わりが薄くなる中に、淀川こそは決壊しないと信じ、豊かな生活を安穏と享受する今日、今一度、生活者としても自身を見直さねばと思うこの頃である。(2019.11.11)
(参考文献)
1)淀川百年史編纂委員会、「淀川百年史」、建設省近畿地方建設局、1974年
2)松浦茂樹、「明治の淀川改修計画 デレーケから沖野忠雄ヘ」、土木学会論文集 第425号/IV-14 、1991年1月
3)国土交通省淀川河川事務所、「100年前の大洪水と新しい川の誕生」、
https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/tanjyou.html(2019.11.01閲覧)
4)関西・大阪21世紀協会、「なにわ大坂をつくった100人:第6話 与謝蕪村」
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/006.html(2019.11.01閲覧)

刊行物
お問い合わせ