伊藤達也(法政大学)
1.はじめに
最近、河童と友達になりつつある。もちろん、そう思っているのは私だけで、河童から「友達だよ」と言われたことはない。そもそも、会ったこともない。でも、日本全国いろいろなところに河童は棲んでいるし、多くの人たちが既に河童と友達になっている。だから、もう少しがんばれば私も河童と友達になれるのではないかと強く期待している。
卒業論文で水資源問題を扱って以来、かれこれ40年近くになる(正確には37年)。これまでずっと水資源をめぐる対立と調整、具体的には長良川河口堰や徳山ダムといったダム・河口堰の建設問題を取り上げてきた。こうした研究テーマから河童関連ものに研究テーマが移ってきた、いや、広がってきた理由については、既に「河童による水辺環境保全運動と地域振興効果-福岡県久留米市田主丸町を事例に-」(水資源・環境研究32-1、2019)で述べたので、ここでは繰り返さない。「どうしたの?」「何があったの?」「心境の変化?」等、数々の質問を頂いたが、私としては両者の間に何の断絶も矛盾もなく、研究テーマとして両立している。問題があるとすれば、研究テーマの広がりにより、対象地域がどんどん増えていき、なかなか現地を訪問し、見識を深め、研究を行うことが難しくなっていることだ。今年は大学から数年ぶりにサバティカルをいただき、「さあ、いろいろなところへ行くぞ。待ってろよ、河童」と思っていた矢先、コロナ問題が発生してしまい、ほぼ2か月以上の「ステイ ホーム」に至ってしまったことはつくづく残念だ。
せっかく、学会のホームページに原稿を載せていただく機会を頂いたので、これまで私が訪れた河童のまち(むら)をいくつか簡単に紹介し、我が国で河童、そして河童の友人の人間がどのように暮らしているかについて述べてみたい。当初はもっと多くの河童のまち(むら)を紹介するつもりでいたが、妙に長くなってしまったため、2、3か所の紹介にとどめる。もし機会があれば是非続きを紹介させていただきたい(笑)
2.河童のふるさと、田主丸
福岡県久留米市田主丸は少なくとも西日本最大の河童のまちと言ってよいだろう。そのように考える最大の理由は、田主丸に西日本の河童の総大将である九千坊が棲んでいるからだ。田主丸に棲む河童の友人の人間たち(河童族と称している)は敬意を込めてJRの駅舎を河童仕様にし(写真1)、町の至る所に河童像を設置し(写真2)、毎年8月8日には河童祭りを開き、子々孫々、河童と友人であり続けるための努力をしている。私もここ2年ほど、河童祭りに参加させてもらっている。
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写真1 JR田主丸駅(筆者撮影、以下同じ)
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写真2 田主丸の町中にある河童像の一例
 河童祭りの日は朝、神事を済ませ(写真3)、子ども河童族は神輿を担いで町中を練り歩く(写真4)。町中に人影が少ないのがちょっと寂しい。午後はゆっくりと休む。でも子供たちは1年のうちこの日だけ許された巨瀬川の川遊びを存分に楽しみ、夕方まで川から出ようとしない(写真5)。そして、夕方になると居酒屋「川底」(私が勝手に命名)がオープンする(写真6)。川の中にテーブルとイスを置き、足を川に漬けながらお酒と料理を頂く。みなさんも8月8日一緒に行きませんか。
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写真3 河童祭りの神事
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写真4 河童神輿の練り歩き
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写真5 巨瀬川で遊ぶ子どもたち
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写真6 居酒屋「川底」
3.河童上陸の地
怒られるかもしれないが、私が調査を含めてそれなりに案内できるのは田主丸だけで、あとは「行ったことがある」程度の知識しかない。申し訳ありません。
河童は日本オリジナルの存在で、海外には棲んでいない。ただ、田主丸駅の河童資料室(今はきれいなカフェになっている)の壁に展示されていた資料によると、河童は元々中国の山奥に棲んでいて、そのうち東に向かったのが仁徳天皇の治世に日本に来て、西に向かった一族はハンガリーにたどり着いたという。これはどうしてもハンガリーに行かなければならない。日本に向かった河童族の大将が九千坊で、船で来たのか泳いで来たのかは知らない(噂ではどうも泳いで来たらしい)が、熊本県八代市の球磨川河口にたどり着いた。八代市の球磨川河口にはそれを示す立派な碑と河童のモニュメントが立っている(写真7、8)。ただ、2018年8月、現地を訪れた時、地元の人から「あの碑はうちの父親が洒落で立てた」と聞いてしまったため、本当に河童が八代に上陸したかどうかはわからない。ちなみに私のゼミに所属する中国人留学生に河童が中国にいるかを質問したところ、全員が「いない」と答えた。西遊記に出てくる沙悟浄は日本では河童であるが、中国では川の神的存在(例えば河伯)ではあり、河童ではない。
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写真7 河童渡来の碑
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写真8 碑の横に設置されている河童像
 八代に上陸した河童たちはその後、球磨川流域に広がり、繁栄を極めた。しかし、加藤清正の怒りを買い、肥後から追い出され、久留米に逃れた。現在、久留米市のイメージキャラクターであるくるっぱ(写真9)は、2019年のゆるキャラグランプリでご当地部門9位に食い込んだなかなか将来性のある河童であるが、田主丸の人々は「くるっぱは久留米のゆるキャラであって、田主丸の河童ではない」「くるっぱはまだ田主丸に挨拶に来ていない」などなかなか手厳しい見方をしていた。
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写真9 くるっぱ
ただ、2017年11月に行ったアンケート調査では好意的な回答が多く、現在の関係は良好だと思われる。蛇足であるが、私の住む埼玉県志木市の公式キャラクター・カパルは、2018年ゆるキャラグランプリご当地部門で1位になった(写真10)。河童強し。
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写真10 カパル
4.怖い河童が現れるところ
兵庫県福崎町は民俗学の父柳田國男が生まれた町である。この町が6年ほど前から、「河童の町」「妖怪の町」として人々の注目を集めるようになった。河童は元々、馬を川に引き込んだり、人間の尻子玉を引っこ抜いたり、川で溺れさせたり、なかなか怖い存在であった。そのため、史料として残されている姿はおどろおどろしいものばかりであるが、最近はゆるキャラブームのせいもあり、河童から恐ろしさが消え、何とも言えずかわいい存在と化している(河童から怖さが消え、かわいくなってきたのは、実はもっとずっと前からであるが、ここでは問わない)。
福崎町でも写真11に見るように、町のキャラクター「フクちゃんサキちゃん」(もちろんモデルは河童)は十分かわいいキャラなのであるが、2014年頃に出現した「ガジロウ」「ガタロウ」は見るからに恐ろしく、しかも15分毎に溜池の中から現れる(写真12)。私は2018年3月に現地を訪れたが、評判通り十分怖く、隣で父親に抱かれた子供が泣いていた。タクシーの運転手から聞いた話では、前年(2017年)、すごく話題になり、観光バスがたくさんやってくるほどだったが、今年(2018年)は既にブームが去ってしまったそうだ。ガジロウの現れる池の横では、どら焼きをくわえ、逆さになった天狗が滑走していた。他にもたくさんの妖怪が存在し、最近では町中に設置された妖怪ベンチに多くの妖怪が座っているらしく、福崎町はいよいよ「妖怪の棲む町」づくりに邁進しているようだ。私は、怖い河童ブームは長持ちしないと考えていたが、予想を誤ったか。もしかしてブームはまだ続いているのだろうか。一度確認に行かなければならない。
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写真11 福崎駅前のフクちゃんサキちゃん
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写真12 池から出てくるガジロウ(真ん中)
5.環境保全と地域振興
たかだか2つや3つの事例、しかも表層をなぞっただけの紹介から、何かまとまったことが言えるとは思っていない。ただ、こうした紹介の根底には、河童を使った環境保全、さらには河童を使った地域振興の可能性への視点があることを述べておく(伊藤2020)。河童が生き生きと暮らすまちやむらに環境問題は発生しないだろうし、河童が経済発展や地域振興を引っ張るようなまちやむらには決して地域の衰退は生じない。こうしたことを考えながら、今現在は「ステイ ホーム」を心がけ、しかし、コロナ問題が終了次第、河童に会うために日本全国に出かけたいと思っている。
追記
早速、「ガジロウの現れる池の横では、どら焼きをくわえ、逆さになった天狗が滑走していた。」がわかりづらいとのコメントを頂きました。コメントがあるということは、読んでいただけたということ、ありがとうございます。次の写真13を見ていただければわかると思います。ちなみに天狗がくわえているのは福崎町の名産もちむぎから作った「もちむぎどら焼き」です。一つ133円(税込み)で、隣のレストランの売店で売っています。私はこの原稿を書くための下調べをするまでそのことを知らず、売店でたくさん河童グッズを買い込んだ(写真14)のに、どら焼きは買い損ねました。ちなみにガジロウのプラモデルも売ってます。ネットで買えますよ。
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写真13 逆さ天狗
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写真14 福崎町の河童グッズ
参考文献
伊藤達也(2019)「河童による水辺環境保全運動と地域振興効果-福岡県久留米市田主丸町を事例に-」水資源・環境研究32-1
伊藤達也(2020)「第19章 環境保全と地域振興は両立できるか」(伊藤達也・小田宏信・加藤幸治編『経済地理学への招待』ミネルヴァ書房)
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