拓殖大学政経学部教授

奥田進一

 小生ゼミナールでは、毎年春に、荒川右岸河川敷を下流に向かって約30キロ歩く「河川ウォーク」が恒例行事となっている。しかし、今年度は、コロナウィルス禍の影響で見送られ続けた。そして、2020年10月24日に、ゼミ生13名と小生を加えた総勢14名で、自粛生活により弱った体力も考慮して、千住新橋から葛西臨海公園までの約20キロに短縮してようやくの挙行と相成った。

午前11時、北千住駅前で昔懐かしのチンドン屋さんに見送られながら河川敷に向かい、千住新橋のたもとの虹の広場で荒川の基礎知識について解説を行う。荒川河口部は、正式名称を荒川放水路といい、じつは人工河川であることは意外と知られていない。まずは徳川家康公による利根川東遷事業に始まり、明治44年に着工された荒川放水路掘削事業に至るまでを学生に解説する。さて、ここからが河川沿いをひたすら歩くだけの文字通りの「河川ウォーク」の始まりである。参加者一同、靴や着衣の状態を確認し、あるいは明日の予定と体力の消耗具合を換算し、なんだか妙な緊張感に包まれる。

①北千住駅前のチンドン屋さん.jpg

写真①「チンドン屋」

写真②「河川占用標」

 東武線の堀切駅前に所在する東京未来大学は、もともとは足立第二中学であるが、少子化やドーナツ化現象で2005年3月末に閉校した。過疎化現象は、決して中山間地域だけで発生するのではない。他方で、ある世代以上にとっては懐かしの場所である。かつてTBSドラマ「3年B組金八先生」の舞台として全国に名を轟かせた「桜中学」なのである。ここでしばらく、金八第5シリーズ(1999年度放映)に登場した、亀梨和也(深川明彦役)と風間俊介(兼末健次郎役)の想い出の名場面について学生たちに延々と語りだす。すぐ傍らには隅田水門がある。この水門から流れ出た水路はわずか400mで隅田川に合流するが、じつはこの水路は、荒川放水路の開削によって、それまで隅田川に注いでいた綾瀬川が分断され、荒川と隅田川の間に残った綾瀬川の最下流部である。当時これを埋め立てなかったのは、明治期から昭和初期までは、まだまだ東京では水運が盛んであり、墨東地区から東京都心に至る近道として利用価値が高かったのではないだろうか。ここで学生たちに、唐突に「カネボウ」の社名の由来についてクイズを出す。答えは「鐘ヶ淵紡績」であるが、鐘ヶ淵駅の向こうに見えたのは「Kao」のロゴを掲げた巨大な倉庫であった(その背後に「Kanebo」の倉庫がひっそりとあった)。

③懐かしの金八先生ロケ地(桜中学).jpg

写真③「東京未来大学(桜中学)」

写真④「隅田水門」

 それにしても、(東京スカイツリー)から、いつまで経っても離れることができない。釈迦の掌中を超えることができなかった、孫悟空の気持ちがよくわかった。京成押上線の八広駅付近から、右岸も左岸も、異様なまでに少年野球場がひしめいていることに気が付いた。墨田区や葛飾区に、野球強豪校が多数存在することと無縁ではなさそうだ。ここで、ある学生からスコアボードやバックネットが設置されていないという指摘を受けた。河川法を学ぶうえで、非常によい質問である。そもそも、河川敷を使用するためには河川管理者(荒川の場合は国土交通省)から河川占用許可を受ける必要があるが、出水時に容易に撤収できない固定物の設置は障害となるため、法律上禁じられているのである。土曜日ということもあって、様々な団体が河川敷のグランドを利用していたが、真剣に白球を追う少年少女の数は疎にして、ゲートボールに興じる老年老女の数は密であった。人口減少社会をビジュアルで実感できた。

写真⑤「少年少女」

写真⑥「老年老女」

 河川敷の至る所で、セイタカアワダチソウが満開である。1900年頃に本邦に侵入したためもはや全国的に分布しており、帰化植物などと称されることもあるが、外来生物法で要注意外来生物に指定されている生態系を脅かす危険植物である。環境法学者らしくそのような話を学生にしつつ、いつの間にか花見の名所である小松川千本桜に至った。ちなみに、土手から堤内地に広がる大島小松川公園は、賛否両論渦巻くスーパー堤防の中心地である。午後2時を回り、秋の日差しはだいぶ傾き加減であったが、陽光の眩しさは夏場のそれに匹敵するものであった。ここで休憩がてら弁当を広げ、桜の開花宣言の基準となる「指標木」について説明をする。東京の桜の開花宣言の基準となる「指標木」は靖国神社のそれが有名だが、花見の名所ごとに「指標木」が存在し、小松川の土手沿いの1本も指定されている。どの木でもよいというわけではなく、長年にわたって同じ環境で生育していることが条件となる。

⑦小松川千本桜の指標木.jpg

写真⑦「指標木」*写真は2019年4月撮影

写真⑧「小松川千本桜を歩く学生たち」

 さらに1キロほど進むと、荒川ロックゲートにたどり着く。ここで水路のエレベーターともいうべき「閘門」の仕組みや、小名木川の謎について最後の講義をする。深川から始まり荒川を垂直に横切って行徳に至る小名木川は、江戸に入府したばかりの徳川家康公が、房総半島にいる北條氏の残党に対処すべく開削した軍事用高速水路であった。しかも、この水路を往来する船団の操縦は、家康公が信頼して大坂佃村から連れてきた漁民集団が専ら担い、彼らが集住させられたのが小名木川の起点である深川下方に位置する佃島だ。そういえば、少し前まで佃島の人々の言葉の端々には関西弁が混じっていたという話を、深川出身の同僚教員から聞いたことがある。

 ⑨荒川ロックゲート.jpg

写真⑨「荒川ロックゲート」*写真は2019年4月撮影

⑩この先18キロ・・・.jpg

写真⑩「この先18キロ・・・」

 清砂大橋を渡り、いよいよ終着地である葛西臨海公園の大観覧車が間近に見えてきた。赤く塗布された左岸のサイクリング・ランニングコースが、この日一日で最も長くきつく感じた。近在に居住する学生の談によれば、近年、西葛西周辺にはインド人が多く集住するようになり、荒川河口を聖なるガンジス川に見立てて、夕方になると大挙してやってくるという。なるほど、陽も傾き始め、サリーをまとった女性や髭を蓄えた屈強な男性など、明らかにインド系と思しき人々がひっきりなしにやってくる。もしかしたら、間もなく、在日インド人が荒川河口で沐浴をする光景が日常的になるのかもしれない。入管法改正に伴う新たな問題点に気が付いたのは、私一人だけではなかっただろう。なんだか無性にカレーが食べたくなり、腹の虫もしきりに鳴き始めた。いつの間にか中川が合流し、川幅も一段と広くなった。右岸に目を遣ると、夢の島が見えてきた。新江東清掃工場として現在も東京都民のごみ処理を行っているが、あの地域全体がごみの埋め立てによってできたのかと想像すると、循環型社会の形成は程遠いのではないかと脱力感に襲われた。

写真⑪「清砂大橋」

⑫夢の島.jpg

写真⑫「夢の島」

 荒川河口橋をくぐりほどなくして左折し、午後5時丁度についに葛西臨海公園に到着した。一人の脱落者も病人も怪我人もなく、全員無事に完歩した。私を除く参加者全員が、人生においてこれほどの距離を歩いた経験は初めてであった。しかし、昔人にとっての旅は、全行程徒歩が基本である。東海道中膝栗毛の弥次喜多などは楽しそうだが、参勤交代の供侍などはさぞやつらかったことであろう。さらに、大日本沿海輿地全図の伊能忠敬や奥の細道の松尾芭蕉の健脚ぶりには、いまさらながらに驚嘆する。「健康のために一駅手前で降りて帰宅しましょう!」などというキャンペーンが実施されることがあるが、なんとも空々しく聞こえてくる。ちなみに、厚生労働省のホームページによれば、このように健康のために通勤経路の途中で降りて帰宅した際に事故にあっても、労働者災害補償保険法7条2項乃至3項に定める要件に該当しないため、労災認定は下りないという。もっとも、はじめから徒歩を通勤経路にしておけば問題はないだろう。さて、来年はどの川を歩こうか。

⑬荒川河口橋を下から.jpg

写真⑬「荒川河口橋」

写真⑭「完歩した参加者」

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