飯岡宏之(SUW研究所代表)

 水資源・環境学会 冬季研究会は『水の安全保障を考える−制水権という概念をめぐって−』というものであった。折からのロシアによる無法なウクライナへの侵略もあって、お二人の報告はタイムリーなものであった。もともと国家と水問題はさまざまにからまって、ますます複雑になっている。

筆者がおもな研究対象としている相模川、その河水統制事業で建設された相模ダムは1941(昭和16)年に着工され、第二次世界大戦中も工事は継続し、終戦間際に物資不足で中断したわずかな期間をのぞき、1947(昭和22)年に完成している。この時期は、すべての物資が軍部の統制下におかれたことから、ほぼ、中断することなく建設された唯一の大規模土木事業といえる。その背景には京浜工業地帯が軍事生産をささえる工場群であったことが大きい。明治時代の埋立地に形成された京浜工業地帯は、鉄鋼から通信機まで、さまざまな工場が立ち並び、生産拠点になっていた。アメリカ軍の空襲にさらされながら、稼働していたこれらの工場は1945年(昭和20年)4月15日の川崎、5月29日の横浜の大空襲でほぼ壊滅し、一万人以上がなくなったとされる。

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写真1 相模湖 神奈川県ホームページ『河水統制事業』から転載

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/vh6/cnt/f8018/jigyo_kasuitosei.html(2022年4月4日閲覧)

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写真2 上空から見た相模ダム

2009‎年‎8‎月‎26‎日 筆者撮影 相模川流域誌編纂委員会視察、ヘリコプターから

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写真3 相模ダムサイト

2009‎年‎8‎月‎26‎日 筆者撮影

相模ダムの目的は水とともに電力である。河水統制事業はアメリカのTVA(Tennessee Valley Authority)に触発され、利水と治水の一挙両得を目的としたダムを建設するものである。京浜工業地帯の発展とともに、横浜市、川崎市など主要都市をおもに、神奈川の人口増加は著しく、水不足は深刻であった。内山岩太郎知事(官選第25代)は、さらに県が電力事業を経営することで、疲弊する財政を豊かにしようと考えた。この河水統制事業は国策であったが、神奈川では県独自の事業として施工された。さらに、1936年(昭和11)年から、水がのらない広大な台地である相模原には、東京の麻布から陸軍士官学校などが移転し、軍都計画が具体化していた。また、海軍は厚木飛行場、寒川工廠、平塚火薬廠、研究所などをおき、相模川流域は要塞地帯のような模様であった。相模原の上水道は戦争のため、軍隊の命令一下、県によって建設される。

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写真4 相模ダム発電所

2009‎年‎8‎月‎26‎日 筆者撮影

相模ダムをめぐる終戦間際の動向について、宮村忠『相模川物語』、大西比呂志ら『相模湾上陸作戦 ――第二次大戦終結への道』によると、相模ダムは敵からだけでなく、味方からも攻撃の対象になっていることがわかる。アメリカ軍は1945年11月から日本本土への総上陸作戦(ダウンフォール作戦、Operation Downfall)を予定していたことはあまり知られていない。この作戦は九州へのオリンピック(Olympic)作戦と東京へのコロネット(Coronet)作戦とでなっており、コロネット作戦は関東への上陸をするもので、湘南海岸の茅ヶ崎市沿岸がその目標の一つであった。アメリカ軍は強襲上陸のあと、相模川にそって上がって、町田市付近から東京の中心部に進行する作戦を準備していた。すでに、日本軍にどれだけの軍備がのこっていたかは疑問だが、本土決戦にむけてにわか作りの第53軍の部隊は「相模川からの進行を阻止する任務を」もって展開していた。民間人の徴用、学徒動員のほか、男子は60歳、女子は40歳以下をもって国民義勇隊が結成された。

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図1 コロネット作戦 関東地方の水田地域および水利

『茅ヶ崎市史資料集Ⅰ』から転載した。
原文はマッカサー記念館(ヴァージニア州ノーフォーク市)にある。

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図2 コロネット作戦 統合戦争計画委員会

『茅ヶ崎市史資料集Ⅰ』から転載した。
原文はマッカサー記念館(ヴァージニア州ノーフォーク市)にある。

宮村は当時の相模ダム建設責任者の手記に「折しも陸軍の某参謀が本庁に来て、あのダムを破壊したときの影響とその及ぼす範囲を研究して呉れという驚くべき申し入れをなした。それは敵がもし上陸したならば、ダムを破壊して敵を押し流すというのが、当時軍の戦法であることは、直ぐ分かったが、営々辛苦十カ年余り、完成一歩手前にとなり国家の命運の一大事とは云え、壊せと云われてもオイソレという気持ちになれなかったのが、当時のいつわらざる心境であった」 とあったことを記している。上陸しつつある敵をダム爆破の洪水で殲滅しようということは、流域の住民にも多くの犠牲がでることは承知のうえである。

アメリカ軍は湘南海岸沿岸の日本軍に打撃をあたえるため、相模ダム爆破を考えていた。この上陸作戦については、大西らが『茅ヶ崎市』の編纂の過程でアメリカ公文書館などを調査し作戦文書を発見した。コロネット作戦は1946年3月1日をY-Dayとして実行されることになっていた。その兵力はヨーロッパからの転戦もふくめ総数100万をこえるものであって、事前に東京から湘南沿岸を徹底した艦砲射撃で陣地を破壊しておくこととしていた。しかし、犠牲はアメリカにも数百万の軍・民間人の死者がでると予想されたため、大統領は躊躇したといわれる。日本は沖縄への上陸と民間人を巻き込んだ地上戦、その後の広島、長崎の原爆投下という多大な犠牲をもって終戦をむかえる。筆者は東京の下町生まれの身の上から、もしY-Dayがあったならとおもうとそら恐ろしくなる。相模ダムはアメリカ軍による爆撃訓練の標的にもなって、作業員はいのちからがらで、工事にあたっていた。工事への近隣、学徒の動員、とくに強制動員された中国、朝鮮人は危険な箇所にあたり、死者も多かった。毎年、地元では慰霊祭が開かれている。筆者はこのことを相模川流域誌編纂委員会『相模川流域誌』に拙文を書いた。

相模ダムが敗戦後も工事を継続できたのは「横浜はアメリカ第8軍の基地となり、同軍の指令による軍施設への大量給水確保のため、一般市民給水は制約を受ける状態となった。……給水の増強を図るには、中断していた第4回拡張工事のうち、配水能力を増大する工事を実施するほかなかった。進駐軍と協議を重ね、1946(昭和21)年5月、進駐軍から施行期限つきの工事命令」(横浜水道130年史)をうけためである。この拡張工事は相模ダムからの導水をするためのものであるから、ただちにダム建設の再開を県に命じ、優先的に資材をまわした。横浜には占領軍40万のうち10万が駐留していた。敗戦後の都市の衛生状態はひどく赤痢、腸チフスなどの法定伝染病が蔓延した。アメリカは都市の水道行政を直接に指導し、横浜水道のろ過水に塩素を入れるように注文をした。

研究会でウクライナへのロシアの侵攻は、ロシアが一方的に行ったクリミア半島の併合で、ウクライナ本土からの水の供給がとだえたことが遠因となっていると、また、ナイル川でのエチオピアの大ダム建設は水利を思うままにしたエジプトへの反発もあって、流域各国の対立はふかまっていると、それぞれの報告者はのべていた。コモンズたる水を前提にした国際河川の合意のみちは遠く、いまだに先が見えない。世界は一国主義にもどったようにすらおもえる。日本は過去から何を学ぶべきなのか、ウクライナへの侵略が一刻もはやく終わることを願いながら、「制水権とはなにか」「どうあるべきか」を考えている。とはいえ、遠く横浜の地から丹沢にかくれて見えない相模ダムをながめるように、筆者には模糊として掴めない。

引用文献

・宮村 忠、『相模川物語』、1990、神奈川新聞社

・大西比呂志、栗田尚弥、小風秀雅、『相模湾上陸作戦 ――第二次大戦終結への道』、1995、有隣堂

・横浜市水道局、『横浜水道130年史』、2020、

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/sumai-kurashi/suido-gesui/suido/rekishi/130nenshi.html

(2022年3月30日閲覧)

参考文献

・相模川流域誌編纂委員会、『相模川流域誌』、2010、国土交通省京浜河川事務所

・茅ヶ崎市、『茅ヶ崎市史 現代1――通史・60年の軌跡』、1995

・茅ヶ崎市、『茅ヶ崎市史資料集1――茅ヶ崎のアメリカ軍』、2006

・神奈川県ホームページ、企業庁のダム、http://www.pref.kanagawa.jp/docs/vh6/cnt/f8018/index.html

(2022年4月2日閲覧)

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