若井 郁次郎(モスクワ州国立大学 講師)
京都の微地形を見つめ直す
 京都は、山並みの総称で呼ばれている、東山、北山、西山の三つの連山が逆U字状に取り巻く、盆地です。山並みの区切りは、そびえ立つ二つの主峰、北東の比叡山と、北西の愛宕山とを目安にしてよいでしょう。主峰と連なる山は、標高が1,000メートルに満たない低い山からなりますが、その奥行きがとても深いです。盆地に連なる麓には、盛り上がりのある扇状地や台地があり、続く平地は南へ緩やかに延びています。平地には、東山、北山、西山の奥山に降り注いだ雨滴を源流とし、山間をぬって流れ出る数条の大小の川が北から南へと貫流しています。流れゆく川は合流を繰り返し、水量を増し、ついには鴨川や桂川となり、南部で木津川に合流します。三川は一つになり、淀川と名を変え、大河となって大阪湾へ流れ下ります。
 ここまでの京都の地形と川のジオラマの中で金閣寺辺りを部分拡大し、微地形で見ると、地形と川との興味深い関係が眺められます。それが、天神川です。
天神川にあった都市河谷
 天神川は、紙屋川とも呼ばれ、西大路の北端と北大路の西端とが出会う地点から少し東に行くと、のぞき見ることができます。二つの川の名前の由来や使い分けは、よくわかりませんが、「神」と「紙」は同音だけでなく、どちらも神事に欠かせません。
天神川は、鷹峯を上流とし、流れて桂川に合流します。流路延長(指定区間)は約1.4キロメートルあり、淀川水系の川(一級河川)とされていますが、集水域は、鷹峯より奥の山間部にまで広がっています。
普段、天神川を見ることが少なく、筆者も天神川の前をバスで通りますが、あっという間に通り過ぎます。何か深そうな谷かと思うくらいで気に留めていませんでしたが、ある日、あるとき、友人の「おもしろい川があるで~!」との一言に飛びつき、この辺りの現地案内をお願いしました。後日、現地に立つや、「ほんまや!これ京都の川かいな~!」と一目見て、びっくり仰天しました。これまで抱いていた京都のやさしい川の風景イメージが一転しました。このとき以来、筆者は天神川のこうした個所を都市河谷(としかこく)とひそかに呼ぶことにしました。
 それでは、天神川の都市河谷を見ましょう。天神川に架かる天神川北大路橋から見下ろし眺めたのが写真1です。右岸にマンション、左岸に佛教大学校舎があり、挟まれて中央に天神川の細流があります。日常は、水量が少なく、流れ走る小川のような天神川ですが、ひとたび大雨になれば、増水し、両岸の上部にまで迫る激流となり、一変する様子を目撃したことがあります。
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写真1 天神川を北に見る(天神川北大路橋上より)
左にマンション、右に佛教大学校舎(撮影外)
さらに下流の都市河谷を見ましょう。そこは、北野天満宮近くの桜橋付近です。この橋上からの天神川の光景が写真2です。写真1と同じように、コンクリートや石積からなる両岸に沿って戸建て住宅やマンションがびっしりと建ち並んでいます。もし地震や洪水が起きて、両岸に建つ住宅やマンションが転倒すれば、天神川の強い濁流をせき止めるダムに豹変しかねないことになります。このような災害リスクが杞憂であれば、よいのですが、心配します。
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写真2 天神川を北に見る(桜橋上より)
御土居とは
 御土居は、土塁と堀が一体となった築造物で、かつて二条城を中央にして京都の四囲にありました。京都は一時、御土居により、囲繞地(いにょうち)となり、環濠都市となったのです。史実によれば、御土居は、豊臣秀吉が、洛中と洛外の区切り、賀茂川や天神川などによる水害防止、敵の攻撃防備の目的のため、京都所司代の前田玄以に下命し、築造させたそうです。御土居は、総延長が約22.5キロメートルもあった、日本では珍しい狭長な築造物です。これが、1591年(天正19年)の閏1月から4月までのわずか4カ月という信じられない超短期で造られました。その実現には、多くの名将が土木技術に長けていたように、土木技術を知悉していた秀吉の立案による御土居の構想・計画の熟慮と、周到な準備があったと思われます。
 位置と規模を見ましょう。御土居の大まかな位置は、上賀茂神社近くの御園橋を起点に右回りに、ほぼ賀茂川、鴨川の右岸側に沿って南下し、JR京都駅に、さらに少し西に進み、堀川で南に折れ、東寺をぐるりと回って千本通を北上し、四条通を左折し、西に行き、西大路通に出て、ここから紙屋川(天神川)に沿って北上し続け、鷹峯に至り、ここより直線状に延びて御園橋に戻ります。調査結果や関連書物によれば、御土居の総延長は前述したように約22.5キロメートル、囲まれた区域の面積は約21平方キロメートルです。その断面は、底部が約10~20メートル、高さが約3~6メートル、上部が約4~8メートル、斜面の傾きが45度の台形です。御土居の外側の堀は、幅が約3.5~18メートル、深さが約4メートルです。
 御土居は京都市内の数カ所で保存されていますが、多くは樹木が繁茂し見つけにくいので、すっきりと保存されている原形を見に行きましょう。そこは北野天満宮近くで、石碑「史跡 御土居」(北区平野鳥居前町)が立つところです(写真3)。史跡は、部分ですが、当時の姿が丁寧に保存されています。御土居は、基礎に竹や石を敷き、その上に土を強く固めながら上部に進む、版築工法で造られたことから、裾には、周辺の御土居を発掘したときに出土したと思われる石仏が行儀よく並んでいます。なんとも微笑ましいかぎりです。
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写真3 「史跡 御土居」の光景
天神川と御土居の三つの不思議と推定
 天神川と御土居とを見て、思い巡らしていたことを三つにまとめ、不思議として推定することにしました。第一は、水量の少ない天神川の両岸が、なぜ切り立っているのか、という川の姿です。第二は、驚異的な速さでの御土居の築造は、いかに完工されたか、という工程管理や資材計画です。第三は、御土居の築造に従事する多数の労働者を、どのように集めたか、という雇用面です。これらについて、次に思い切って推定しました。
 第一の不思議は、天神川と史跡・御土居の原形とを現場で目視したとき、一方の断面を逆転し、重ねると、ほぼ一致するのではないか、と直観しました。これを解く手がかりを求めて早速、天神川北大路橋に出かけ、現地で天神川の断面を実測しました。現地では、簡単なメジャーと、石を重しにしたプラスチック紐とを使って、橋の長さや、橋上から天神川の水面までの長さを測りました。その結果、橋長は約28メートル、橋上から水面までの長さは約10メートルでした。さらに下流に進み、史跡・御土居近くの天神川に架かる桜橋で橋長を測ると、約21メートルでした。これらの実測データをよりどころにして、上述した御土居の断面データ(底部約10~20メートル、高さ約3~6メートル、上部約4~8メートル)とをざっと比べれば、だいたい重なるようです。このように想定すると、今の天神川の両岸が切り立つ不自然な姿は、当時、御土居の築造に使う土砂を天神川の両岸から削り取った名残りかと思われます。
 第二の不思議は、御土居の築造が超短期工事であった、ということです。決断と実行が並外れて速い秀吉の難題に応える、統括管理責任者の前田玄以は、雨天が少なく、川の水位が下がり、工事が容易になる、冬季を選び、請負首領に工事区間を割り当て、責任制で工事を進めさせたと思われます。その大変さを土砂量を試算し想起しましょう。築造には、表面を覆い土砂流出を防ぐ粘土や、御土居本体を堅固にする土砂が大量に必要です。仮に御土居の断面を、平均して上部6メートル、底部15メートル、高さ4.5メートルの台形とすれば、断面積は約47平方メートルです。これに総延長22.5キロメートルをかけると、約106万立方メートルとなります。これだけの大量の粘土を含む土砂などの土材料をどこから取り出したのか、と考えさせられます。まずは、御土居の堀を造るときに出る掘削土砂を考えるのが自然です。次は、御土居近くに流れる川、たとえば天神川の川底を浚えた土砂や、岸や崖から切り出した土砂を使うことです。残りの不足分は、近くの山からです。基礎に使う竹や石は、近在の山や林から切り出し、運んだのでしょう。石は、出土した石仏のように身近にあり、利用できる石材はみな利用したことが窺えます。土砂や石や竹などの材料以外にも必要なことがあります。速やかな築造工事には、土砂や石や竹など築造資材の保管場所や加工場の他、重労働者の休憩や寝泊りができる飯場などのためのバックヤードも要ります。そうした痕跡があったと想像される場所が天神川沿いにあります。そこは、写真4に見るように、周囲の土地と比べ相当な段差があり、都市河谷とみなせる天神川の岸辺とは思われません。さらに地面をよく見ると、河原とは思えない、まとまりのある広いくぼ地であったようです。おそらくここは、かつて御土居の築造に適した土砂の採取場であり、その跡地がバックヤードとして有効利用されていたと思われます。
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写真4 階段のある地区(土取り跡地か)
(手前は天神川に架かる橋)
 第三の不思議は、4カ月の超短期での大量の重労働者の応急雇用です。これは、秀吉の黄金好きに着目しました。秀吉は、天正長大判(金貨)などに象徴されるよう、豊富な金を背景に大きな政治力をもっていました。秀吉は、工期を1月から4月の農閑期に選び、しかも重労働に慣れている、近在の農民を破格の賃金で大量に雇い入れて実行したと思われます。いわゆる人海戦術ですが、稲作などの農作業への影響を少なくし、しかも経済的に人心をうまくとらえた大動員であったといえます。
 以上が、史実と筆者の仮想とが交差した、三つの不思議と推定です。
寸 言
現在は、堅い土砂をもたやすく掬い取るショベルカー、大量の土砂を運ぶダンプトラックなどの大型車両、土砂を連続して運ぶベルトコンベアーなど建設機械が現場で多用されていますが、当時の建設作業は、すべて人力に頼っていたといっても過言ではないでしょう。しかも鉄製や木製の道具、縄などの天然素材を使っての作業でした。しかし、超短期での御土居の築造を支えたのは、人や物の無駄のない配置、各現場に各種資材を滞りない供給を確かにした物流、体力と健康維持の源となる不足ない食糧配給など各種システムの効率的な工程管理・運用技術や、信頼できる情報伝達技術にあったと思っています。振り返って、現代の建設技術者には、御土居の築造に限らず、往時の建設技術の創意工夫を知るとともに、技術の基本中の基本を学び、現場に出向いて立ち、自然特性を直視する姿勢が何よりも肝要と考えています。一言でいえば、温故知新。
謝 辞
 現地を快く引率していただいた、畏友の芳村晃男氏にお礼を述べます。
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