若井 郁次郎(モスクワ州国立大学 講師)

地名の奥深い由緒
京都の地名は、何丁目何番地といった数列的な表示よりも、事跡や治績、歴史的事件などに深く由来するものが多く、その判読や解読が困難なうえ、理解するのも大変です。ここでは、今回の話題に沿う表記「かも」に限定します。
京都市の北部に、上賀茂地区、下鴨地区があります。両地区は、互いに接していますが、賀茂と鴨と表記に違いがあります。ふたつの地区には、賀茂別雷(わけいかづち)大神を祭神とする上賀茂神社、賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)とを祭神とする下鴨神社があることから、両地区とも神社名に由来する地区名と思われます。この地域の地図をじっくり見ると、加茂街道もあります。賀茂は、西賀茂地区、上賀茂神社、賀茂川に、鴨は、下鴨神社や鴨川に、加茂は、加茂街道にと、地区名、社名、河川名、街道名の頭に使われています。また、地域のアイデンティティとした校名や公的施設などの他、農産物でも見られます。かもの表記をめぐって、賀茂、鴨、加茂と3種類が登場します。加えて、かもに因む姓を紹介します。
鴨脚。これ読めますか。かもあし、おうきゃくと読んでは駄目です。「いちょう」と読みます。これは、鴨の水掻きの形がイチョウの葉に似ていることによります。植物にも鴨足草(ユキノシタ)があります。昔の人は、自然の造形をよく見ています。これらは、想像を豊かにしてくれる好例です。
地名は奥深く、これだけで大きな書物になりますので、川の流れのおさらいをして、鴨川に目を移します。

川の流れとは
多くの人は、川とは、上流から下流へ流れる水、と見ています。そのとおりですが、川をもう少し詳しく知ると、川がよく見えてきます。
筆者は、川とは、水面より上に空気、水底より下に岩(礫や砂利、泥を含む)があり、空気と岩に挟まれた流水であると見ています。教科書風には、気体(空気)と、固体(岩)の間にあって、液体(水)が上から下へ流れているのが川です。このように三層構造として川を見ると、水面では空気と、水底では岩と、それぞれ触れるため、摩擦が生じます。そうすると、水面では緩やかに見える流れも、水面より下の方で速くなり、再び水底で遅くなります。この流れの深さ方向の変化は、おおむね放物線を想定してください。この川の深さ方向の流れの変化を知っていると、川での水難事故を防げます。筆者の川の横断測量時の体験では、水深が膝あたりで、立っているのが精一杯でした。これより深い場所に立ち入ると、流される恐れがあります。ひとたび川に流されると、浮力以上に身体全体が水面下の速い流れに引き込まれ、水中では身体が斜めか、水平になり、自力で立つことは、まず無理です。川での水泳であっても要注意です。助かる方法のひとつは、近年注目されている、あおむけで水に浮く、着衣泳を習得することです。ただし、助けを待つ必要があります。
川は、流れが固い岩場にあたると流れを変え、これを繰り返しながら上流から下流へ蛇行しながら流れます。この説明も一理ありますが、筆者は、人工河川を直線状に造り実験しても、時間が経つにしたがい、川は蛇行する、と講義か何かで聞いたことがあります。これは、川の流れは、重力の他、地球の自転による遠心力の影響をもわずかに受け、回転していると考えています。大きな湖や海では、遠心力や他の力の影響を無視できませんが、専門的になりますので、ここまでとします。遠回りになりましたが、河川を扱う工学では、重力を動因とする流水の直流や曲流にかかわる水理現象を技術的に解明し、有効で有用な治水・利水方法を構想・計画し、実践することを目的にしています。この基本は、鴨川とても同じであり、自由に流れるのが自然です。

賀茂川から鴨川へと名を変えて
鴨川は、一級河川です。その指定区間は、上流端が京都市北区雲ケ畑、下流端が桂川合流点であり、流路延長は23,000メートルです。現在の鴨川は、上流より下流にかけて階段状に堰堤が設けられ、水勢が弱められ安定的に直線状に流れていますが、かつては暴れ川であり、たびたび京都は水害で悩まされました。このため平安時代に防鴨河使(ぼうかし)という官職が置かれ、堤防築造や水防管理に携わりました。このころの鴨川は、自由に曲がり流れていたと思われます。史書『日本三大実録』には、仁和3年(887年)8月20日、京都に台風が襲来し、鴨川が氾濫した、との記録が残されているとのことです。今は、この連載(1)で紹介しました御土居をベースとする、上賀茂神社近くの御園橋から約3キロメートル続く加茂街道が堤防の役割を果たしています。加茂街道に立つと、西側に見える平地との段差は大きく、斜面は急であることがわかります。
さて、賀茂川と鴨川とは、地元では、次のように使い分けています。
賀茂川は、出町柳辺りで高野川と合流します。この合流地点より北が賀茂川、南が鴨川といわれています。これを確かめるため、現地に出かけ、橋の両端にある親柱の銘板を確かめました。紹介します各橋では、左岸から渡る方向で見ています。合流直前の賀茂川に架かる出町橋では、上流側で「賀茂川」、下流側で「出町橋」と表示されています(写真1)。

写真1:出町橋北東にある「賀茂川」の銘版
(以下、写真はすべて筆者撮影)

合流後の賀茂大橋では、上流側の親柱に「賀茂大橋」、下流側で「かもおほはし」と表示されています。おそらく賀茂川に架かる橋ということでしょう。さらに下流の丸太町橋まで行くと、上流側で「鴨川」、下流側で「丸太町橋」と表示されています(写真2)。やっと確認できました。

写真2:丸太町橋北東の「鴨川」の銘版

今回の橋の現地調査後も、他の橋を渡るとき、銘版の位置をなるべく左岸から見るようにしていますが、川や橋の名前を表示する銘板が、橋を渡る方向に見て、上流側に、下流側にとまちまちで統一されていません。ご存知の方は、教えてください。

三条橋から三条大橋へ昇格
豊臣秀吉は、近江の長浜城主(当時は羽柴秀吉)として、この地を治めていたとき、水城・長浜城から、京都や大坂、あるいは北陸方面へと多くの物産を運ぶ船が多数往来する近景や遠景を目の当たりして、水上交通の役割を通じて、速やかな物流や人流の重要性を悟ったのでしょう。この悟りが本格的な三条大橋の架橋の伏線となったようです。
秀吉は、京都を統治拠点にしたとき、次の小田原攻めを計画していました。しかし、そのころの三条橋は、河原に架けられた簡単な木橋であり、渡るには一度、河原に降りる不便があり、増水時には橋をわたることができませんでした。また、従来の山科や伏見へう回し大津を経由して東国へ向かうには、時間がかかり過ぎます。そこで、秀吉は、天下への誇示を兼ね、速やかな人の移動や多くの物資運搬のため、天正17年(1589年)、奉行・増田長盛(ましたながもり)に命じて、日本で最初の本格的な石柱橋を造らせることにしました。これが、天正18年(1590年)正月に完成した、長さ約101メートル、幅約7メートル、擬宝珠18基を有した三条大橋で、現在の三条大橋の原形です。
橋の構造は、橋脚から下を下部、それより上を上部と二つに分かれます。橋の下部構造の工事は、橋脚のように水中での作業が主となり、工事難易度は非常に高くなります。現在でも、橋脚建設は非常に困難な工事ですから、当時はもっと大変であったと推察されます。その下部工事の見事さを三条大橋で順を追って概観しましょう。
まず、橋の長さや幅といった大きさ、これを支える橋脚の数や位置、使用材料の種類や数量などが計画されます。この計画諸元どおり、現地で架橋や橋脚の位置が測量により正確に決められます。その測量技術は、太閤検地で知られているように、精度の高いものでした。
橋脚の建設位置が決定されると、鴨川の流路を変え、難工事が始まります。三条大橋では、河床から下へ深さ9メートルの基礎が造られます(図1)。この掘削は、現在の建設重機を使えば、容易な工事ですが、当時は人による大変な作業であったと思われます。

図1:三条大橋の擬宝珠に彫られた銘文
(2行目最後から3行目にかけての「盤石之礎入地五尋」に注目。ここでの「尋」は概ね1.8mなので、すなわち「五尋」は約9mとなる)

橋脚を乗せる基礎工事が終わると、続いて橋脚を建てる工事になります。三条大橋の場合、約1本の長さ約3メートル、直径約70センチメートルの御影石を3本積み上げ、約9メートルの橋脚を1本造ります(写真3)。

写真3:三条大橋下流で現役の石柱橋脚

流れに沿って高さがそろった橋脚3本を縦列にしています。横断(流れに対して直角)方向には、橋脚3本縦列を1組とし、7組が並べられています。7組の橋脚は、中央の組が少し高く、これより左右に置かれた橋脚の組は、少しずつ低くして、左右対称になるように造られたようです。この工夫により、完成した橋は、渡る方向に中央へ進むと、緩やかな上りとなり、中央を過ぎると緩やかな下りになります。橋の上りと下りが左右対称になっています。これは、雨水を速やかに排水するためで、現在の橋でも同じです。三条大橋の橋脚工事に合計63本の御影石が使われ、21本の橋脚が造られました。しかし、一般に、石は圧力には強いですが、衝撃や曲げには弱いものです。石柱3本を積み上げた橋脚は、増水時の水流(横からの力)には、とても弱いです。そこで、石柱と石柱をどのように連結したのか、疑問が出てきます。この疑問は、京都国立博物館の「西の庭」に実物保存されている三条大橋と五条大橋の橋脚に使われた石柱に、凸部、凹部があり、2つの石柱をつなぎ合わせていたことがわかりました(写真4)。

写真4:三条大橋(手前の1脚)と五条大橋(奥の2脚)で使われていた旧橋脚
(現在は京都国立博物館「西の庭」で展示)

さらに、この実物を見て、社寺の日本建築物を支える礎石に天然石が使われます。この礎石の上に木柱を置きますが、その底部を少しずつ削りながら、ぴたりと合わせ乗せる技術があります。この技術も応用されているのか、と思った次第でした。


こうして造られた橋脚であっても、お互いにつながりがありませんので、不安定です。何らかの衝撃力で倒壊や転倒する恐れがあります。どのような工夫があったのか、大いに悩みました。この悩みは、同じく京都国立博物館の「西の庭」に屋外展示・保存されている五条大橋の実物の橋脚を見て、瞬間に解消しました。3つの橋脚の上に、橋脚をつなぐ石桁(横桁)が2本あり、接して乗せられ、一体化されていました。実に見事な工夫でした(写真5)。

写真5:旧五条大橋の橋脚と横桁
(現在は京都国立博物館「西の庭」で展示)

こうしてできた7列に並ぶ橋脚の径間(橋脚と橋脚の間。スパン)は、中央の6径間に端部の2径間を加えて、中央の橋脚より左右に4径間の計8径間になります。この1径間の長さは、橋長101メートルと計画されたので、約13メートルになります。
続く工事は、ひとつの橋脚(両岸の橋台を含む。当時の橋台は、石積み護岸と推定)と、他の橋脚との間に主桁を架け、この上に直角に敷板(踏板)を乗せ、さらに柱や高欄を設けると、橋の出来上がりとなります。
いくつかの工夫もあります。例えば、装飾や、事績の銘文を兼ねて、木製の親柱の腐蝕を防ぐ擬宝珠がかぶせられています。また、橋脚の下には、水流による洗堀を防ぐため、橋脚の川上と川下に敷石が置かれています。三条大橋を通るとき、そっと下をのぞき見てごらん。敷石があります。
現在の三条大橋は、長さ74メートル、幅16メートル、擬宝珠14基の橋です。初代の三条大橋に比べ、長さは短く、幅は広く、擬宝珠は4基少なくなっています。

二つの絵図に描かれた三条大橋の真偽
皇都・京都の立派な三条大橋は、完成以降も、諸国の人びとの往来が激しい東海道の重要な起終点であり続けました。一般の人の移動や旅行が容易でなかった近世、ここを通過した人びとによる風評が全国の津津浦浦に広まるものの、実際に見ることができた人は、限られていたと思われます。見えないものを見たいと思うのが、人の気持ちです。その気持ちを手助けしたのが、絵図といえます。
そこで、完成時に近い三条大橋の姿を、万延元年(1860年)発刊の『淀川両岸一覧』に掲載の三条橋の絵図と、歌川広重の浮世絵・東海道五十三次の「三条橋」の絵図とを選びました(図2と図3)。

図2:『淀川両岸一覧』に描かれた三条橋
画像出典:早稲田大学図書館サイトより
図3:歌川広重が描いた三条橋
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

『淀川両岸一覧』に描かれた三条橋を一目見るや、橋脚の絵柄がごま塩のように描かれていて、御影石(花崗岩)と直ちにわかりました。実際に見た三条橋を描いています。そして、絵図をよく見ると、人や馬は橋を通行していますが、牛が引く荷車は、川の中を通っています。これは、橋の傷みを少なくするため、重いものを運ぶときは、河原に下りて、川を渡る必要があったようです。釣り人も描かれていて楽しそうです。さらに背景には、比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)などが描かれています。これを制作した絵師の観察眼と表現力に感服します。
一方、歌川広重の三条橋に描かれた橋脚は、木製であり、しかも筋交いがあります。おそらく歌川広重は、江戸に架かる橋を見ていたことと、三条橋を見た人から聞いた話とに基づいて三条橋を描いたと思われます。さらに、構図として眺めると、下流から見て描いているのであれば、比叡山や大文字山を遠望することができません。上流からであれば、方向は東山連峰になります。これは想像で描いた風景と思われます。二つの絵図を見て、今昔の情報の正確性や信頼性を学ぶことができる、良い教材の例であると思われます。
※なお、ここでは絵図の表記により三条橋としました。

橋と川が醸し出す抜群の演出効果
賀茂川と鴨川の合流地点(京都府立鴨川公園)は、下鴨神社の糺の森とともに映画やテレビドラマなどのロケ地、水遊びの場としてよく知られています。橋の演出効果は抜群です。脇役の橋は、ラジオや映画でしばしば登場します。映画「戦場にかける橋」のクワイ川支流のクウェー川鉄橋は、よく知られていて、現在も当時の姿と少し異なりますが、現役です。今にも主題歌「クワイ川マーチ」が聞こえてきそうです。また、戦後の高度経済成長期が始まり、婦人解放・参政が進み、アメリカ文化がどっと押し寄せる時代に公開されたラジオドラマ・映画「君の名は」では、数寄屋橋が舞台になりロケされています。今はその姿は消え、名前は残りましたが、こころの残像としての橋です。
文豪・夏目漱石は、しばしば京都を訪れ、ある春、鴨川沿いを散策していて三条から五条にかけて橋がたくさんあることを知り、「加茂にわたす橋の多さよ春の風」(明治40年)と詠みました。三条大橋から正面橋までの約1,200メートルの区間に6橋があることに驚いたのでしょう。漱石が暮らしていた東京では、墨田川のように、川幅が広く、大きな橋ですが、数が少ない実情と対比したのでしょう。橋も作句の対象になった例です。

時代の流れを映す三条大橋
三条大橋ほど時代をにぎやかにした橋は、まれであろう。
昔は、架橋場所が限定的であり、現在のように簡単に橋を通って対岸へ渡ることができませんでした。このため、架橋場所を目指して各地から多くの人が集まり、橋を渡って各地へ向かいました。三条大橋もそうです。通過地点としての橋は、情報伝達の好立地場所になることから、幕府による法度や掟書などの高札が掲げた高札場がありました。また、暗い面では、河原は、犯罪人を衆目にさらす刑場になりました。石川五右衛門の処刑は、よく知られています。
現在、実際に見ることができる時代の節目を追い、三条大橋の北西から時計回りに見ていきましょう。ここには三条大橋の築造に使われた御影石の石柱が1本置かれています(写真6)。刻銘がはっきり読み取れます。

写真6:三条大橋北西におかれている石柱

北東に進むと、「駅伝の歴史ここに始まる」と書かれた駅伝発祥の碑があります(写真7)。この駅伝は、1917年(大正6年)4月、東京の上野で開かれた、奠都50周年記念大博覧会を記念し、ここから東京・上野までの508キロメートルの「東海道駅伝徒歩競争」でした。

写真7:三条大橋北東にある「駅伝発祥の地」の碑

続いて、南東に移ると、勤皇思想家の高山彦九郎の皇居遥拝像があります(写真8)。この像は、京阪電車の三条駅が地上にあり、京都の主要ターミナルであったとき、三条大橋の南東の袂にありました。その後、駅前の交通の整流化と歩行者の安全のため、陸橋建設があり、少し移動し、現在の位置に落ち着いたようです。

写真8:三条大橋南東にある「高山彦九郎 皇居遥拝像」

南西には、十辺舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に登場する、弥次郎兵衛と喜多八、いわゆる弥次さん、喜多さんの像があります(写真9)。

写真9:三条大橋南西にある「弥二さん喜多さん」の像

これらに加えて、三条大橋の西端から二つ目の南北の擬宝珠に刀傷があります(写真10)。池田屋騒動のときの刀傷といわれています。ある方が実物の刀剣で実験したそうです。一見の価値があります。ぜひ見てください。

写真10:刀傷のある三条大橋の擬宝珠
(北西から2つ目)

大水害もありました。1935年(昭和10年)6月下旬の豪雨に見舞われた京都は、京都大水害になり、橋が流失し、市中の一部地域が浸水しました。このとき、大量の流木が橋脚に架かり、流水をせき止め、水害を大きくした原因でもあったそうです。
戦後が終わろうとしていた、1954年(昭和29年)8月16日、三条大橋と丸太町橋の区間で花火大会がありました。このとき、落下傘型打上花火の一部が京都御所の小御所の檜皮葺屋根に落ち、小御所が焼失しました。この火災以後、花火大会は中止になりました。残念ながら、都心での京都の夏の風物がひとつなくなりました。
よいこともありました。三条大橋から東山連峰のなだらかな風景が、上述した陸橋の撤去により再び取り戻すことができました。三条大橋に立つと、その風景を遠望することができます。どうぞご覧あれ。
いろいろな事件がありましたが、三条大橋の雄姿は、これからも続くことでしょう。

ゆく川の流れは
ゆく川の流れで始まる『方丈記』を著した鴨長明は、京都周辺地を転々としていました。そのおり、長明が使っていた住居「方丈の庵」の実物大が、下鴨神社の一角にある河合神社で公開されています(写真11)。方丈の庵は、広さ一丈四方(約3メートル四方)あります。よく見ていますと、移動に便利な組立式です。これならば、場所を選ばず建設できそうであり、たとえば、国内外の被災地で応急住宅として使えないものかと考えています。

写真11:下鴨神社境内の河合神社にある「方丈の庵」

寸 言
大学生のとき、土木製図演習の課題のひとつに木橋の製図があり、当時を思い出しながら、三条大橋の架橋工事の緻密さに改めて感銘しました。
石柱が風雪と橋の重さとに耐えられるようにと判断し、石場から長く大きな御影石を切り出した石工の目利きは、すごいものです。また、それらの石柱を御影から運んだことも驚きです。多数の石柱や石材は、大変重いので、浮力を利用する水上輸送で運ばれたと思われます。
約430年前に架けられた三条大橋の橋脚は、重交通に耐えながら、現在の三条大橋の下流側で今も使われています。この事実だけでも、三条大橋は、今日まで立派な橋であり続けたことが分かります。近代の橋は、経済性を優先して、鉄と鉄筋コンクリート製ですが、三条大橋の石柱は、21世紀の今日でも現役です。昭和25年(1950年)に改築された三条大橋は、現在、改修工事中です。改修後も高欄や親柱などは木製になります。青銅の擬宝珠は、改修前のものが使われます。これこそ文化の継承です。こうして、往時の雰囲気が継承される、三条大橋は、2024年3月に全体改修が完了する予定です。改修前と同じ姿になった三条大橋の渡り初めが楽しみです。
大事なことは、現地に足を運び、実物をよく見て、当時の情景に思いめぐらすことです。一言でいえば、巨細一見。

刊行物
お問い合わせ