若井 郁次郎(モスクワ州国立大学 講師)

禹の治水
 大河の畔で、紀元前5000年から紀元前1000年の間に四大文明が起こりました。いずれも今日では、砂漠化し荒涼とした無機質な光景が広がります。その遠因は、各文明が都市を建設し、文字を創り、法律を整え、農業を盛んにし、文明化を加速させる過程で、大地の豊かな緑を大量消費し、水の地域循環を大きく変動させたからと推測しています。やがて各文明は、急速に衰退しました。筆者は、その主因は水と緑の浪費とにあると、にらんでいます。文明とは、食糧とエネルギーを大量に消費して成り立つと考えています。食糧の小麦などの生産には、水と土壌と日光が、熱源や建築には、薪炭や木材となる樹木が必要になります。これらの例を示すまでもなく、水と緑は、自由自在に応用できる万能資源です。だから、水と緑こそが、古代文明社会を支えたのです。これは、現代文明への警句や教訓といえます。
急速に衰退した地域にゴビ砂漠があり、ここは黄河の源流です。黄河の中・下流域で黄河文明が起こりました。ここでは、堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)の時代に目を向け、治水への流れを見ましょう。今日、堯と舜は伝説上の人物とされていますが、禹は実在したという説が有力になっています。
 三人物の伝によれば、堯は天(暦)に、舜は人(社会制度)に、禹は地(治水)に業績を残しました。古代の中国では帝位を有徳の人物に譲る、禅譲というならわしどおり、堯は舜に、舜は禹に帝位を禅譲します。
 さて、洪水に悩まされていた舜は、鯀(こん)に治水事業を命じます。しかし、鯀は、長年にわたり取り組んだ治水事業に失敗します。禹は、父の鯀の事業を引き継ぎ、成功させます。失敗と成功を分けた親子の治水技術の違いは、次のようでした。鯀は、水没地帯を埋め立てる「堙(いん)」という方法でしたが、禹は、水路を切り拓き、堤防を造り、洪水を流す「疏(そ)」という、今日までの治水の基本になっている工法を取り入れました。禹は、流れや流域をよく見て、堙も取り入れたようです。禹による治水事業の成功は、農事や社会を安定させ、国の確かな統治へとつながりました。刻苦勉励で粗衣粗食の人であった禹は、帝王となり、夏王朝を開き、治水の功績により治水の神と崇められ、禹王廟が中国各地に設けられていきます。

日本での禹王廟と治水祈願
 日本列島は、主要4島と約3,000の小さな島からなり、ほぼ南北3,000キロメートルにわたり点在しています。海に囲まれた列島の中央部には、山脈が南北に縦走しています。ユーラシア大陸の東端という特異な位置にある海洋日本は、黒潮や親潮などに洗われる中で、夏は太平洋南方からやってくる梅雨前線や台風を、冬はシベリアからの強烈な寒気を真正面に受け止めています。停滞する梅雨前線や、襲来する台風が、またシベリア寒気団が、列島山脈に遮られて、太平洋側には長雨や大雨を、日本海側には大雪を降らせます。著しい気象変化は年年歳歳、春夏秋冬の四季の季節感の悦びとなりますが、自然災害の誘因にもなります。古来、水害は、為政者や農業者、民衆にとって不安のひとつです。連載(2)で紹介しましたように、京都では水防専門の防鴨河使(ぼうかし)が置かれるまでになりました。近年では、沸騰する地球と表現され、気候が不安定になり、線状降水帯や斜面滑落などが各地で頻発しています。何十年に一度、記録的な、これまでにない、と形容されるように短時間集中豪雨などの気象災害が多発しています。このような背景より、局地気象予測や、住民の安全な自主避難の判断情報の提供など、水害・治水関連問題は、新たな解決困難な壁に直面しています。
 治水問題を抱えていた当時の日本に、治水神・禹への信仰が中国から伝わり、各地で禹王廟が開かれます。中国大陸からの渡来人がもたらしたのか、禹の治水業績が信仰の対象として伝えられたのか、定かではありませんが、四条橋あたりの左岸に禹王廟があったとのことです。禹王廟は、現在の京都南座を少し東にある仲源寺に引き継がれているといわれています(写真1)。

写真1:仲源寺 (筆者撮影。以下同様)

 この寺は、雨止(あめやみ)地蔵として民衆に親しまれ、一名を目病(めやみ)地蔵ともいわれています。筆者は、もともと治水神の禹を祀る廟であったが、いつしか禹(う)が雨(う)となり、雨を止める雨止(あめやみ)となり、さらに目病(めやみ)と転訛したと考えています。いわば伝言ゲームのように、もともとの音が変化し、民衆が真に祈願したい、ご利益の面が強調されたかと思います。そして、信仰は、廟に代わって親しみある地蔵(地蔵菩薩)を厚く拝み、洪水だけでなく、病をも除いてもらう心になったようです。このように民衆には、見えないものを、言いやすい、聞きやすい、伝えやすい、分かりやすい、信じやすいものに変えていく力があるように思われます。

にぎわいと華やぎの四条大橋
 四条大橋は、東北から西南の対角線上にふたつの伝統的建物、東南の京都南座と、三方から由緒ある建築物に取り囲まれた異色ある橋です(写真2)。

写真2:下流から見た四条大橋(左右に伝統的洋館、右手前に京都南座)

 ひとつは、東北側にあり、国登録文化財に指定されている、大正5年(1916年)築の洋館です(写真2の右側の建物)。もうひとつは、西南側にあり、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計により大正15年(1926年)に建った洋館です(写真2の左側の建物)。この建物の日本最古のエレベーターは、見る価値があります。両館とも大正ロマンの雰囲気を感じさせる、老舗レストランとして現在も営業しています。
 現在、四条大橋は、京都市内で最も人の往来が多い橋です。橋の利用者は、日常の通勤や通学、買物などで渡る周辺の人びとに加え、四条通の東端にある八坂神社(祇園社)の参拝者、東山山麓の円山公園や高台寺あたりを訪れる観光客などです。この四条大橋の日夜の多くの人の動きは、さらに、四条通と周辺地域の現在の姿から窺い知ることができます。
 四条通は東西に走る道路ですが、沿道には業務、商業、娯楽など京都の都市機能がぐっと凝縮していることから、東から西へ歩くと、いつしか町の雰囲気が変わる不思議な都市空間です。その様子は、四条大橋より東は八坂神社への参拝者や観光客向けの商店街、四条大橋を西へ渡れば市民や観光客向けの百貨店、専門店や物販店が多く並ぶ商店街、さらに西へ進むと業務ビルが立ち並ぶ業務街となっています。また、四条通と南北に交差する細街路は、よく知られた場所をつなぎます。東より、祇園甲部と祇園東を結ぶ花見小路、鴨川と高瀬川に挟まれた先斗町通、高瀬川沿いの木屋町通、河原町通、新京極通、寺町通があります。これらの細街路沿いには、民家と隣り合わせに花街、繁華街、飲食店など多数が軒を並べています。観光客はもとより京都市民にとって、これらの南北の通りを歩き、風情を楽しみながら、お気に入りの店に寄るのも楽しみのひとつです。運が良ければ、舞妓や芸妓、南座で公演中の歌舞伎俳優などとすれ違うことがあります。

四条橋の普請と維持管理
 四条大橋は、かつての四条橋から少しずつ広くなり、前回の三条大橋と同じように、大橋になりましたが、もともと疫病退散を願うため、祇園社(八坂神社)へお参りする人が渡る小さな木橋から始まったようです。橋の普請と僧侶とのかかわりは古く、平安時代の前期には技術者としての僧侶が橋を架けていたようです。僧侶は、橋上で勧進し、参詣者から寄付(お布施)を受け、寄付は、寺社の建立・修繕、橋の建設・修繕に充てられました。今も勧進している僧侶が四条大橋に立っている姿をときおり見かけます。
 架橋だけでなく、普請には、土木技術や土木事業の有用さを熟知している僧侶が、古くから土木技術者兼助言者として活躍していたようです。その一人に唐へ留学し、香川県の満濃池を改修・支援した弘法大師(空海)は有名です。
 江戸時代の四条橋は、河原ではなく、両岸から架けられています(図1)。さらに見ると、擬宝珠がありません。擬宝珠がある公的な橋とは異なり、私的な橋とわかります。

図1:『淀川両岸一覧』に描かれた四条橋 (画像出典:早稲田大学図書館サイトより)

 橋の建設や維持には、多額の費用が必要です。そうした事情があり、橋脚や橋そのものの流失を防ぐ工夫がされています。それは、図1の絵図に描かれている、四条橋の上流側に平行して並ぶ三角形状の工作物です。この工作物は、古来、河川の水制に使われてきた「牛枠(うしわく)」と呼ばれるもので、力学的に最も強く安定する三角形を基本に、丸太を三角錐に組立てて作られます(図2)。その重しとして、石を詰めた蛇籠のいくつかを三角錐の枠内や端部に乗せます。水制利用には、三角面を上流に、3本の丸太を束ねた端部を下流に向けて沈圧します。

図2:牛枠
(出典:宮本武之輔『最新河川工学』、工業圖書株式会社、昭和17年12月)

 よく似た工作物としては、海岸や港で見かける消波用の中空三角ブロックを思い浮かべると、容易に想像できます。筆者は、子どものとき、牛枠を鴨川で見たような記憶があります。牛枠は、地方に河川で他の古来の水制工作物と組み合わせて、水制として今も使われているかもしれません。天然素材の木や石で造られた河川工作物を思いがけずに発見するのも、河川紀行の楽しみのひとつです。

歌舞伎のルーツ
 歌舞伎のルーツは、出雲の阿国が始めた歌舞伎踊といわれています(写真3、写真4)。

写真3:四条大橋東北にある出雲の阿国像
写真4:京都南座西側にある出雲阿国歌舞伎発祥地の石碑

 17世紀前後、京に上った阿国は、人の往来の多い四条橋の河原に目を付け、男装し奇抜な服を着て、流行歌を歌い舞っていたようです。想像ですが、今日のコスプレに近い風姿で、歌いながら踊っていたのかもしれません。当時にあっては、度肝を抜くきらびやかな服や装飾品を身に着け、流行を追うことを傾くといい、阿国にあやかりたい人を傾き者(かぶきもの)と呼んでいました。その後、時代を経て、傾きから歌舞妓に、さらに歌舞伎と微妙に変わってきました。四条橋の東の袂には、歌舞伎用の劇場として南座や北座が設けられ、そこで演じられるようになりました。江戸時代の南座や北座は、前出の図1の四条橋の東に民家に囲まれ、幟が上がる大きな建物で描かれています。建物は、丸太で組み立てられ、筵(むしろ)のような物で覆われていた、と思われます。ここで演じられた歌舞伎は、大衆娯楽となり、絶えることなく演劇として大きく充実・発展し、今日では、重要無形文化財、無形文化遺産となり、継承されるべき国民的知的財産になっています。
 歌舞伎を楽しく芝居見物するには、歌舞伎を一語でなく、歌舞伎を歌と舞と伎に分け、歌は音楽、舞は舞踏、伎は技芸とじっくり見て想像すると、場景が浮かんできます。この歌舞伎の初歩を知り、京都、大阪、東京などの劇場に足を運べば、実り多い観劇ができます。ここでは四条大橋の東南詰の京都南座での顔見世興行を話題にします。
 毎年、11月下旬になると、11月30日の初日にあわせ、勘亭流の独特の文字で書かれた役者名とその紋を表示した、家の屋根をあらわす庵形のある、まねき看板70枚が京都南座の正面に掲げられます(写真5)。これがまねき上げです。まねき看板を見上げると、いよいよ顔見世が始まると実感します。

写真5:「吉例顔見世興行」中の京都南座

 令和5年は、東西合同大歌舞伎「當る辰歳 吉例顔見世興行」と、良い縁起を予感させます。今回の顔見世興行には、十三代目市川團十郎白猿(白猿は俳名)の襲名披露、團十郎の長男で八代目市川新之助の初舞台、長女のぼたんと團十郎の共演もあり、多くの愛好家で沸き立っています。観客席の贔屓筋から屋号「成田屋~!」の掛声が聞こえてきそうです。京都の五花街の芸舞妓の観劇もあり、華やかです。
 吉例、まねき、當るなど笑みを浮かべる言葉が並び、新しい年の開運、福運、良縁の願いが込められています。皆さんも、最良の機運を呼び寄せてください。

寸 言
 団栗(どんぐり)の話です。これに連想して、寺田寅彦の名随筆「どんぐり」を直ちに懐かしく思った方が多いと思います。物理学者であった彼は、随筆家や俳人としても大活躍し、多数の随筆を残しています。物理学の分野では、振動を研究テーマとしていました。彼は、関東大震災やその他の震災の現場を振動の眼で観察し、それらをふまえて講演などで述べた言葉が「天災は忘れた頃にやってくる」と要点として簡潔に表現されました。これは、国民にとってわかりやすい警句であり、災害への心と物の備えの大切さの教訓として今も受け継がれています。
 さて、四条大橋から約200メートル下流に団栗橋があります。四条大橋と比べると、小さな橋ですが、周辺地域の東西往来に欠かせない生活橋となっています。以前はどんぐりといえば、団栗橋とその周辺一帯をいい、花街に近いこともあって大人の世界への意味合いをも含んでいましたが、現在は建仁寺や祇園甲部へ、あるいは河原町通へ抜け出る近道として知られるようになり、地図を片手にして歩く内外の観光客の姿も見られます。団栗橋の東側地域(鴨川左岸)は、図子(途子、辻子。ずし)やたくさんの路地があり、まちづくりの参考になります。図子は、手元にある辞書には、大路と大路を結ぶ小路や辻と解説しています。ここでは、近辺には大路がありませんので、道を結ぶ路とか、辻の意味が適しています。
 かつて団栗の大木があり、地名ともなった団栗で起こった大火事件があります。天明8年(1788年)1月30日(新暦3月7日)、ここの一軒家から出火し、おりからの強風で当時の京都の8割以上が燃え尽きました。天明の大火と呼ばれている人災です。火も水と同じように、暴れると、御しがたくなり、恐ろしいです。
 今回は、天災と人災、水と火と並べた話題で締めくくります。一言でいえば、火廼要慎。

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