大阪学院大学国際学部 三輪信哉

 2023年7月下旬、大阪府の南にある狭山池の見学に行ってきました。すでに多くの方は見学に行かれたことでしょう。私はと言えば、大阪府庁を退職された2年後輩の河野敬太郎さんから何度かお声かけいただいて、狭山池に関する前知識がゼロの状態で行かせていただきました。「今頃何をいうか!」と叱られそうですが、これほど重要で、また深い歴史を語る資料が大阪府下にあったとは、見学を終えての率直な感想です。

 南海高野線大阪狭山市駅で下車、猛暑の中、光が強すぎてあたりがかすむほどの暑い昼です。河野さんが駅で待ってくれていました。そこから西に向かって歩きます。辺りは落ち着いた古い街並みで、歴史と穏やかさを感じる風情です。

 互いに近況などを話しながら10分ほど歩いたところで急に視界が開けます。大きな池、狭山池です。桜が植えられよく整備された土手の上の道を歩きます。散歩やランニングに格好の場所です。「これが狭山池か、自分の家の近くにある公園の池よりはかなり広いな」とその程度の軽い印象でした。少し土手を歩いたところで、公園がありそこを下ると、コンクリート打ち放しの箱のような、倉庫のような建物が2棟、立っているのが見えてきます。無愛想と言ってもいいような外観のその建物は、私の中学校の14年先輩の(ですから全く面識もない)世界的に著名な安藤忠雄氏の設計によるものです。

 階段を降りると、そこには幅広い浅い水路状の池が階段状に設えてあり、その両側からは水路に帯のような滝が落ち、滝の下を歩くような形で正面入り口に辿り着くように工夫されています(写真1)。あとで学んだことですが、池から余剰な水を吐く「余水吐き」から水が水路に落ち、水田を潤す、そうしたイメージなのでしょう。

写真1:狭山池博物館に入る通路

 早速館内に入り、河野さんから詳細な案内を頂きながら館内施設を見学していきます。ちなみに河野さんは、大学卒業後、大阪府に土木職として奉職され、狭山池が改修されてこの博物館が建設されるときに府の職員として関わっておられました。退職後は、博物館の案内ボランティアをされているだけに、その説明は深く、わかりやすく、これほどの案内を頂ける機会はそうはないと思いました。

 館内に入ってなんと言っても最初に度肝を抜かれるのは、狭山池の堤体をそのまま切り取った、高さ15.4m、底幅62mの台形の土壁とも言える堤体断面の展示物です(写真2)。その断面は、川をせき止める形で作られた堤が造られて以来、その重ねられてきた改修と嵩上げが、そのまま可視化されています。またその堤体の底を横切る木をくりぬいて接合した60mほどの築造当時の樋をそのまま見ることができます。

写真2:狭山池堤体の断面と樋管

 この展示物は実際の堤体を切って101個のブロックに切り分け、ポリエチレングリコール溶液に浸して固め、それを再度積み直して展示するという、途方もない技術によって再現されています。そうした現代技術の粋もさることながら、こうした堤の建設を行なった先人たちは、土木機械やさしたる工具があるわけでもなく、土盛りや樋の加工を素手と言っても良い状況で行ったことも驚くばかりです。

 この堤体、また狭山池は、掘り出された樋の木材の分析から飛鳥時代の616年の建設だということが確定しています。土は水に触れる時、蟻のひと穴であったとしても、わずかに流れる水が土を溶かし、やがて穴をあけ崩れていく。土と木で作られたまさに土木で出来たこの堤は、そうした水と土木技術の知恵比べ。一体いつ、誰がこの場所を選び、また誰が意思決定し、どのような人々が工事に関わったのか、疑問は尽きません。

 その堤体の断面を見学したあと、行基が奈良時代の731年に改修したこと、また重源が鎌倉時代の1202年に重ねて改修したこと、その後、江戸時代にも改修を重ね現在に至っていることが実物をもって分かりやすく展示されています。奈良・鎌倉・戦国・江戸・現代と、連綿と補修、改修が続けられ、堤の嵩上げが行われてきた工事の実態が明確になっています。

 そんな中で、重源が改修工事を行なった時、中樋の改修では、取水部と排水部の木材の樋管が腐りやすいために、近在の古墳時代の豪族の石棺を樋管に使用したことも興味深く、墳墓の石材を人々のために使うところ、さすが、執われのない僧侶の技だと感心します。さらに、江戸時代の初め1608年(慶長13年)の片桐且元の改修では、それらの石棺を再利用して、中樋の周囲が崩壊するのを防ぐための護岸の材料として用いました。このように、その時々に様々な知恵が新たに加え続けられてきたのでしょう。

 こうした一連の事実は、1988年(昭和63年)12月から10年以上かけて行われた平成の改修の時に明らかになってきたものです。1982年の「昭和57年8月豪雨」による洪水から、大和川に流れる西除川、東除川の治水対策事業としてダム化工事が行われ、これまで述べてきた堤体の状況やさまざまな遺物が発掘されて、これが1400年に渡る人びとの営みに触れる「大阪府立狭山池博物館」として2001年(平成13年)に結実しました。日本最古の堤体をもつ溜池として築造された狭山池の、未来に残していく歴史遺産としての価値は計り知れません。大阪府もよくぞこのような博物館として残す決意をしてくれたと、感謝の念に堪えません。2010年(平成22年)の「日本のため池100選」選定、2014年(平成26年)には「世界かんがい施設遺産」登録、2015年(平成27年)に「国史跡」指定と、永遠に残すべき生きた史跡として守り続けられるでしょう。

 少し、狭山池そのものについて資料をもとにその概要を述べておきましょう。大阪狭山市に位置する狭山池は、現在の堤体は堤高18.5m、堤頂長997mで、総貯水量280万㎥(既設農業用水容量180万㎥に治水容量100万㎥を加えた)、池の湛水面積0.36㎢、流域面積は17.9㎢、満水時の水面の標高(常時満水位)は79.2m、池の周囲長は一周約2850mです(図1、写真3)。和泉山地から流れる天野川と大阪狭山市南部の丘陵から流れる三津屋川の河川水を堰き止めて貯水。満水時にあふれた水は西除川と東除川にある洪水吐から流され、農業用には、2つの取水設備から水路や河川を通じて北に向かって水田に配水されていきます。そして資料によれば1704年(宝永元年)の大和川の付け替えまで、現在の大阪市域に至る80か村、約4200ha、約55000石の水田を灌漑していたようです。

図1:狭山池と博物館の位置関係
写真3:狭山池博物館内の説明パネル

 館内を説明して頂きながら、そろそろ終わりに近づいたあたりに、一枚の大きな地図が置かれていました。大阪狭山市から大阪市に向けて広がる地図でした(写真4)。押しボタンがあり、何げなくボタンを押すと、手前の狭山池から北に向かって用水路を示す青い線が広がっていきます。それは狭山池が潤す水田の広がりを示すもので、その北端がなんと大阪市の平野区当たりまで届くのです。南北に10km、東西に4kmという広大な広がり、それを見た時に軽いショックを覚えました。こんなに遠距離まで、こんなに広い面積を潤していたのだと。

写真4:狭山池のかんがい範囲(狭山池から大阪市域方向を俯瞰)

 誰が一体、こんなところに川を堰き止めて池を作ろうとしたのか。ここに造れば広大な大地を潤すことができると直感したに違いない。この池が築造された616年とはどんな年だったのだろうか、当時はどんな社会だったのだろうか、疑問が膨らむばかりです。

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以下は私の個人的な想像・妄想です。お許し下さい。

 狭山池が築造された616年は、推古天皇(554-628)の時代、聖徳太子(574-622)の時代である。当時は都が奈良の飛鳥(現奈良県高市郡明日香村)に置かれていた。このころ、中国は隋(581-618)、唐(618-907)の時代で、隋の時代に科挙や均田制、租庸調などができ始め、のちの唐制の基盤が作られた。600年以降日本から数度にわたって遣隋使が派遣されている。

 当時、上町台地の北端に難波津があり、現在の大阪城あたりに難波宮が造営されていた。上町台地は現在の大阪城を北端とする台地で、南北に約11km、東西約2~3kmと南北に細長く、現在の大阪市中央区・天王寺区・阿倍野区・住吉区にまたがる。最も標高が高い場所が大阪城のあたりで海抜約25m、阿倍野付近で海抜約15m、住吉区あたりで海抜約10mと、南にいくほど低くなる(図2)。

図2:飛鳥時代の狭山池と大阪平野

 この上町台地と生駒山の間には古代には河内湖が広がっていた。1704年に奈良盆地から発する大和川が大阪湾まで付け替えられるまでは、大阪平野に入って北上し河内湖に流れ込んでいた。しかし飛鳥時代には、この河内湖も堆積がすすみ、平野化していたと見られている。上町台地の標高25mは、低いようだがビルの8階建に相当する。台地の西側には直下から海が広がり、遠く淡路島が望めた。東を見れば、当時建物といえば平屋建てのみで、視界を遮るものもなく、生駒山地を背景とする広大な湖や湿地、陸地の大阪平野が望めたはずである。また南には狭山のある南河内の地域が広がり、現在の狭山池の堤は標高85.4m、ビルにして28階建、大阪城天守閣の頂上の標高に相当し、その一帯まで視野に入ったことだろう。

 4世紀末から5世紀前半に在位した仁徳天皇は難波高津宮に都を構えた。人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除したとの話が残されているが、これも上町台地から東の平野を見渡してのことだったろう。そこにはあちこちに集落が点在し、人々の営みがあったにちがいない。

 狭山池が築造される3年前の613年、推古天皇紀21年に難波宮から飛鳥に至る官道が開かれた。難波宮から真っ直ぐに南に向かう18mの幅を持つ道、難波大道が作られ、大阪府堺市で東に向かう竹内街道(丹比道(たじひみち)、日本最古の官道)に入る。竹内街道は葛城市二上山付近の長尾神社まで約26km続き、さらに道は東へ延びて「横大路」と名前をかえて飛鳥京へ至った。難波宮から飛鳥京までは全長40kmである。遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、整備されたのではないか、とも言われている。

 南北の大道沿いには聖徳太子が593年に建立した四天王寺が建つ。また、東西の竹内街道沿いには応神天皇陵、仁徳天皇陵と古代の多くの古墳だけでなく、推古天皇陵、聖徳太子の陵が大阪府太子町の竹内街道沿いにある。このことから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を果たした幹線道と考えられている。当時の大陸・朝鮮半島の進んだ技術・文化がこの道を通じて飛鳥へ運ばれた。

 狭山池が造成される前、5世紀から6世紀にはすでに米が重要な食糧となっていた。したがって現在の狭山池の一帯や下流(池の北方向)でもあちこちに水田があったに違いない。渡来人から見れば、街道を行き来する中で、溜池を作り、水田を用水路で結べば、米の増産が可能になると直感的に分かったのではないだろうか。また狭山を含む泉北丘陵とその周辺の地域には須恵器を焼く当時の炉の跡が多数見つかっている。須恵器は食糧を貯蔵することに優れており、また甑や竈で米を蒸す、ということも行われていただろう。

 米ができて初めて土木工事が可能となる。貯蔵性に優れている米は、多くの労働者を一時に集めることができる。狭山池は毎日500人近い動員で60日、農閑期中の3~4か月程度で完成させたとも推算されている。豪族の領地の農民が集められたのだろう。それによって新たな水田が開かれた1

 狭山池は竹内街道から南に6kmほどの位置にある。記述はないものの、狭山池の築造の様子を、42歳の聖徳太子は確かに見ていたのではないだろうか。そして渡来人が技術を伝え指導し、多くの農民が土にまみれて働いていただろう。おそらく、中国と対等に国を造りあげようとした当時、そうした渡来の技術者が名を残すことはなかったのだろう。

 前述のように、狭山池が築造された616年以前の西暦600年より、すでに遣唐使が派遣されていた。小野妹子は607~608年、608~609年の二回隋に渡っている。妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とある国書を渡し、隋帝の怒りをかったとされる。遣隋使によって多くの知識が日本に伝えられた。小野妹子の帰国が609年とすれば、築堤の準備期間も含め7年後の616年に築造されたことは、単に灌漑により収量を上げるということだけでなく、大規模工事ができるという国力を示す国家としての威信をかけた事業だったのかもしれない。

 時を経てその後、改修のたびに堤体は嵩上げされ、狭山池が潤す灌漑域は大阪市の平野区にまで及んでいた。距離にして10㎞、狭山池は広大な面積を以後1400年間、有名、無名の多くの人々の努力によって、潤し続けてきた。そして狭山池は生きた遺跡として、今もなお役割を果たし続けている。

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 博物館で3時間ほど見学して時刻はすでに4時。もっと時間をかけて見学したいところ、足はもう棒のようになり、あとは次回と、博物館を後にしました。もと来た道を駅まで帰り、二人でビールを楽しみました。日中の厳しかった日差しもやわらぎ、気持ちよい風に包まれながらの一杯。同じこの地で1400年の歴史が刻まれてきたことを思い、豊かな気持ちになれた一日でした。

※狭山池博物館は開館日には館内を自由に見学できます。博物館の案内ボランティアを依頼する場合には事前予約が必要です。丁寧な案内によって、なお一層、狭山池の素晴らしさが深まります。図1・2は掲載許可を得てあります。

参考文献
1)市川秀之・植田隆司・光谷拓実・渡邉正巳編著『「狭山池 埋蔵文化財編』」
  狭山池調査事務所、1998年3月31日、663頁
2)大阪府立狭山池博物館「狭山池博物館へようこそ」
  https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/ (2023年11月5日閲覧)
3)大阪府立狭山池博物館『「常設展示案内 大阪府立狭山池博物館 図録Ⅰ』」
  2017年3月28日、80頁
4)大阪府「狭山池ダム」
  https://www.pref.osaka.lg.jp/damusabo/dam/sayama.html (2023年11月5日閲覧)
5)金盛弥・古澤裕・木村昌弘・西園恵次「狭山池ダム・古代の堤体が語る土木技術史について」
  土木史研究第15号、1995年6月、483頁-490頁
6)吉井克信・西川寿勝・浜地長生「狭山池の改修とその技術の変遷」
  建設機械施工、69巻8号、2017年8月、54頁-59頁

  1. 金盛(1995)は「一人当たり一日概ね1㎥の作業歩掛にあたり、初期の堤体の体積は概ね3万㎥程度であるから、歩掛を同じとすると延べ3万人が工事に当たったこととなる。1日500人が動員されたとして60日、転流工や樋管の敷設に一ヵ月程度要したとしても、農閑期の乾期の3~4か月で施工することは充分可能である。」「初期の狭山池の高さは約6m、天端標高75m程度、貯水位を74m程度とすると池面積は約16ha、貯水量は概ね30万㎥となる。現在では田1アール当たり約1600㎥と試算されており、単純計算すると新たに約200アールの農地開発が可能となったと推定される。」と記している。 ↩︎
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