若井 郁次郎(モスクワ州国立大学 講師)

京都の奥・鞍馬
 京都市内を流れる賀茂川と高野川の合流点に架かる賀茂大橋に立ち、北を見ると、低い山が連なる北山を一望できます(写真1)。ここは鴨川に架かる橋のなかでも北山を展望できる位置にあります。

写真1:賀茂川と高野川の合流点(筆者撮影)

 合流点直前の高野川左岸に同じ名前の鉄道ターミナル駅が二つあります。叡山電車(叡山電鉄)「出町柳駅」(地上駅)と、京阪電車(京阪電気鉄道)「出町柳駅」(地下駅)です。2つの駅は、短い連絡通路でつながり、乗換に便利です。
 叡山電車は、古くから地元では「叡電」や「えいでん」と呼ばれ親しまれています。叡電には、叡山本線と鞍馬線の2路線があります。叡山本線は、出町柳駅から宝ヶ池駅を経て八瀬叡山口駅に至る、営業キロ5.6キロメートルの路線です。八瀬叡山口駅から徒歩で少し行くと、ケーブル八瀬駅があります。ここから比叡山の山腹を昇降するケーブルカーに乗車すると、日本一の高低差561メートルの気圧差を耳で実感でき、上空への旅を楽しむことができます。鞍馬線は、宝ヶ池駅で別れ、さらに北の鞍馬駅(写真2)まで延び、営業キロ8.8キロメートルの路線です。

写真2:鞍馬駅と天狗像

 出町柳駅から鞍馬駅までの営業キロは12.6キロメートル、所要時間は約30分ですが、鞍馬線の醍醐味は、移ろう車窓の風景、峡谷や山間部の走行にあります。シミュレーションすれば、市街から郊外へ、やがて山里や深山へと進み、途中から複線が単線になり、電車が転落しそうな谷合の駅に止まり、小さな鉄橋を渡り、短いトンネルを抜けて終着駅に着く、となります。また、高低差は、標高53.7メートルの出町柳駅を基準として、87.5メートルの宝ヶ池駅との標高差は33.8メートル、238.0メートルの鞍馬駅との標高差は184.3メートルとなり、立体的に感じ取れます。さらに、鞍馬線の最急こう配は50パーミル(千分率、記号は‰。1パーミルは、1,000メートル進むと、1メートル上がる意味。)と、鉄道では大変な勾配で、まさに山岳鉄道です。
鉄道好きには、たまらない鞍馬線に乗って鞍馬の山里へ出かける小旅行は、楽しくなります。さらに鞍馬の冬の厳寒、夏の冷涼を肌で感じると、冬や夏の景色の良さが倍増します。

牛若丸(後の源義経)を鍛えた鞍馬の地
 王朝社会から武家社会に変わろうとしていた平安から鎌倉の時代は、平家と源氏が政権をめぐって必死に攻防していました。この政争の渦中で、牛若丸は、母の常盤や二人の兄が平氏に捕らえられるも、幼児であったため助けられ、鞍馬寺に預けられます。牛若丸は、ここで文武の修練を受けて育ったのち、源義経となり、彗星のように現れ、目覚ましく活躍したにもかかわらず、不運な最期を迎えます。
 当時の最高学府は、多くの古典籍があり、最新情報が集まる、寺院や神社でした。その一つが中央の京都に近い鞍馬寺(写真3)であり、この厳しい境遇で幼い牛若丸は、たくましく成長します。

写真3:鞍馬寺

 鞍馬寺で僧侶の教えにより漢書や和書を読み問答し、教養だけでなく戦略や戦術なども学び、僧兵の指導により剣術や弓術、馬術の武芸にも励んだと思われます。武術は、鞍馬の大天狗や小天狗(写真4)が牛若丸に教えたようですが、大柄でたくましい僧兵や、俊敏な小柄の僧兵の象徴が、天狗であった思われます。羽団扇(はうちわ)(写真5)を持ち、軽やかに身をかわす天狗たちに鍛えられ、しなやかな動きでの武術を習得し、ぐんぐん成長した牛若丸は、やがて都へ出ます。

写真4:鞍馬駅舎内の大天狗と小天狗の面
写真5:天狗が持つ羽団扇(はうちわ)
(旧鞍馬電気鉄道から京都バスに引き継がれた社章。羽団扇の下に、鉄道を象徴するレールの断面「エ」が組み合わされています)

元祖・五条橋での牛若丸と弁慶の対決
 五条橋は、牛若丸と弁慶の二人が初めて出会った場所としてよく知られています。現在の五条大橋(五条橋と区別表記)西側の中央分離帯内に、二人の対決の様子を模した、かわいい人形風の像が置かれています(写真6)。

写真6:五条大橋西側にある牛若丸と弁慶の像

 二人の人形風の像を見た観光客らは、牛若丸と弁慶が出会った五条橋だと勘違いします。しかし、今の五条大橋から上流の一つ目の松原橋こそが元祖・五条橋であり、その後の二人の深い絆の出発点として語り継がれる橋です。
 さて、二人が最初に出会い、対決した場所は、清水観音境内や五条天神と諸説がありますが、元祖・五条橋とします。この日は、弁慶が目標とした太刀1000本の最後の1本を通行人から奪い取る満願達成の予定でした。興奮気味の弁慶は、元祖・五条橋を渡り来る牛若丸を見て、奮い立ちます。しばしして、弁慶は、襲い掛かるも、牛若丸は右に左に、上に下にと、ひらりひらりと軽くかわし続けます。これまでの相手とまったく違うと悟った弁慶は、牛若丸に屈服し、主従の関係を誓います。ここまでのあらすじは、説話や伝説、伝承などにある、牛若丸と弁慶の元祖・五条橋の出会いです。その後、牛若丸は成人し、源義経と名乗り、実戦で著しく活躍します。例えば、摂津国(現在の大阪府の北中部と兵庫県の南東部)にある、急斜面の一ノ谷鵯越(ひよどりごえ)(神戸市兵庫区)での奇襲、壇ノ浦での海戦時の八艘飛びなど多くの勇ましい伝説を残しています。しかし、義経の目覚ましい快挙で人気が上昇すると、異母兄の源義朝らの陰謀により追われ、最愛の静とも別れ、身を隠しながら、畿内を転々とします。ついには北陸を経て、奥州へ遁れ、かくまわれます。その後、庇護先の世代が変わり、追い詰められた義経は自害し、義経を死守した弁慶は、壮烈な立往生を遂げます。不遇の英雄・義経の悲話への同情は、「判官びいき」という言葉となり、今も世間で生きています。

新五条橋の構築
 豊臣秀吉は、1586年(天正14年)、かねてから構想していた大仏殿の造営を東山近くに選びました。そこが方広寺です。方広寺が管理した東山大仏殿(以下同じ)の木製の大仏像の高さは、約19メートルであったそうです。奈良・東大寺大仏殿の青銅の大仏像の高さ約15メートルと比べ、一回り大きい大仏像でしたが、代々の大仏像は、焼失するなどの不運が続き、最後の大仏像は、1973年(昭和48年)3月の火災で焼失しました。現在の方広寺には、東山大仏殿や大仏像はありませんが、歴史に残る、方広寺鐘銘事件の釣鐘があります。
 東山大仏殿の造営の影響は、次のように既存の橋の存続と橋名に及びました。元祖・五条橋は、東山大仏殿の造営により改名を余儀なくされます。それは、秀吉が東山大仏殿に詣でるための橋を新設するよう、増田長盛(ました ながもり)(本連載(2)の三条大橋参照)に命じたことに始まります。
そもそも元祖・五条橋の歴史は古く、清水寺への参詣者が渡る橋であり、清水橋、勧進橋とも呼ばれていました。清水寺は、元祖・五条橋を通る参拝者などから橋銭(通行料)を徴収し、維持管理していました。しかし、秀吉の下命により新設された橋の名前が五条橋と称されます。当時の人々は、元祖・五条橋が松原橋に、五条通も松原通に改名され、寂しかったと思われます。
 新五条橋は、三条橋と同じ構造です(本連載(2)参照)。新五条橋は、1589年(天正17年)に完成の東山大仏殿に合わせて架橋工事が進められ、天正17年末には終えたようです。1645年(正保2年)の記録によれば、橋の長さは116メートル(64間)、幅は7.3メートル(4間余り)、橋脚は石造であったようです。擬宝珠は、青銅で左右に16基あったとのことです。本連載(2)三条大橋の長さ約101メートル、幅約7メートルと比べると、五条橋は、少し長く、少し広いです。
 いかにも日本一好みの秀吉らしい発想で完成した当時の五条橋を見る資料がないので、代わりに江戸時代の五条橋を図1に示します。

図1:『淀川両岸一覧』に描かれた五条橋(画像出典:早稲田大学図書館サイト)
注:橋脚は花崗岩。手前の小さな川は高瀬川。

 図1の五条橋の橋脚は、ごま塩の図柄になっていて、花崗岩の石柱と分かります。橋脚に使われた大中小の石柱の現物3個が、現在の五条大橋の北西の公園に置かれています。大きい円柱の直径と周長を実測すると、直径は約73センチメートル、周長は約230センチメートルでした。この石柱の中央に鉄筋が差し込まれています(写真7)。これは、1935年(昭和10年)の鴨川洪水で流失した五条大橋の修復時、再利用するため中心に鉄筋を差し込み、上下の石柱を一体化し安定させた工夫と思われます。ここに置かれている石柱は、現在の三条大橋の北西にある石柱より細いです。

写真7:五条橋の橋脚に使われた石柱と鉄筋

斜めに架かる松原橋と正面橋
 一般に、架橋位置は、両岸の背後の土地利用や生活利便性、地形を考え、架橋候補地点の地質や地盤強度を調べたうえで、架橋の建設費を少なくするため、両岸を最短距離で結びます。この基本的な理由により、平地部の見通しの良い場所では、河岸に対して直角に橋が架けられます。見通しの良くない山間部や峡谷でも、地形、地質や地盤の条件を考え、最短距離で架橋します。
 しかし、そうでない橋があります。それは、現在の五条大橋を挟む、上流の松原橋(元祖・五条橋)と下流の正面橋です。どちらも古くからありますが、共通して、二つの橋は、西から東へ渡ろうとするとき、橋の対岸を見通すことができません(写真8、写真9)。

写真8:松原橋西側から鴨川方面を望む
写真9:正面橋西側から鴨川方面を望む

 この訳は、両方の橋ともに東端(左岸側)が上流に、西岸(右岸側)が下流にあり、鴨川の河岸と斜めの位置にあるからです。例示すれば、松原橋を高い位置から見下ろすと、鴨川の左岸から右岸へと斜めに橋が架かっているのが見えます(写真10)。松原橋と正面橋は、両岸に対して直角とし、最短距離で橋を架ける、との原則から外れています。

写真10:鴨川右岸の上流側から俯瞰した松原橋
(橋の下の水面には、架け換え前の橋脚の一部が残っている)

 斜めに架けられた松原橋と正面橋の長さを、現在の三条大橋などの橋の長さと比べるため、6橋の全長と幅を整理したのが表1です。

表1:三条大橋~正面橋の長さと幅
(2024年3月現在。国土交通省近畿地方整備局京都国道事務所および京都市へのヒアリング調査による)

 表1を見ると、現在の松原橋の全長は、三条大橋や四条大橋、五条大橋よりも長いですが、正面橋は、三条大橋より短く、四条大橋や五条大橋よりも長くなっています。この主な理由として、現在の鴨川は、両岸ともに鉄筋コンクリートや石積みなどの堅固な護岸に挟まれて、ほぼ真っすぐに流れていますが、古くは自由に流れ、大きく蛇行する流れであったことが挙げられます。当時の流路に応じて、橋が架けられたと推察されます。しかし、昔日の技術では、架橋位置の変更が容易でなかったことから、現在に引き継がれたと思われます。
 ですが、架橋技術の大きな進歩により、現在は、直線橋はもとより曲線橋の架橋もたやすくなり、架橋の最短距離の原則よりも起終点を結ぶ時間短縮に重きが置かれるようになりました。この背景には、自動車が広く普及し、高速道路建設が盛んになり、運転者のハンドル操作に負担がかからず、自動車が滑らかに走行できる、クロソイド曲線などを適用した走行区間の整備の重視があるようです。また、架橋地点の地形や河川の流路などの制約は、簡単に克服できるようになりました。むしろ、快適性や高速性が優先され、曲線橋は普通になりました。
 最後に、気がかりになっていた、松原橋と正面橋の斜めの角度です。そこで、地図に分度器をあてて斜めの角度を測りますと、鋭角で約70度でした。三角関数を使って直線橋と見立てた松原橋と正面橋の長さは、それぞれ約75メートル、約67メートルです。松原橋は三条大橋に、正面橋は五条大橋に相当する橋の長さになります。また、現在の松原橋と正面橋は、ここで算出した仮想の橋長と比較すれば、それぞれ約9メートル、約4メートル長い橋になります。最短距離で架橋し、建設費用を最少にする基本に立てば、不合理な架橋建設は、不経済といえます。この事情には、往時の鴨川の蛇行流の自然条件だけでなく、大きな社会的背景もあったと想像されます。
 もう一度、表1を見ると、現在の三条大橋や五条大橋は、100メートル超であった三条橋や五条橋より短いと思われますが、完成時の三条橋や五条橋は、現在の鴨川の護岸より少し離れて、西と東から挟む形で流れる人工運河の高瀬川や琵琶湖疏水がなかったため、架橋しやすい地点が選ばれ、長い橋になったようです。

川の流れと渦
 日本の架橋は、木の使用から始まりました。時代を経て、丸太橋から木や鉄、コンクリートを使った橋になり、多くの人や牛馬、荷車、自動車などが安全に渡れるようになり、今日を迎えています。橋を支える橋脚は重要な部分です。橋脚となる杭は、水中や河川敷に深く打ち込まれるため、古くより丈夫で長い丸太が使われてきました。戦後、しばらく丸太が使われた橋脚をときどき見かけました。
 こうした流れに抗する円柱形の丸太の下流側に渦を見ることがあります。この渦を橋上から見た夏目漱石は、「橋杭に小さき渦や春の川」と一句詠んでいます。畏友であった寺田寅彦の影響を受け、物理的観察眼が養われたのでしょうか。近くでは、1959年(昭和34年)の改修まで木橋であった、松原橋の橋脚に杭らしきものが残っています(前出の写真10)。
 渦は、川だけでなく、風呂の栓を抜いたとき、見ることができます。自然界では、鳴門海峡の渦潮、台風などは、海や大気の大きな渦です。身近に見える渦は、専門的には違いがあります。
 川の渦に戻ります。橋脚の下流側の渦は、河床を洗堀する力として作用します。これは、局所洗堀と呼ばれています。長い目で見れば、橋脚の周辺の河床を掘り続け、流速が速くなる洪水時などでは、局所洗堀が著しく進むことがあります。今日の橋脚は、局所洗堀で倒壊・流出するリスクは低いですが、用心する必要があります。

寸言
 大学で受講した「鉄道工学」で、広島県内を走る山陽本線の八本松駅と瀬野駅の区間(通称セノハチ)は、上り列車(瀬野駅→八本松駅)にとっては22.6パーミルの急こう配と全国有数の難所で、蒸気機関車の車輪が空転するため、長い編成の列車に後押し蒸気機関車を連結し運行しているとの紹介がありました。電化や鉄道技術の進歩により、鉄道事情は変わりましたが、今も多く残る傾斜鉄路を見つけて旅をすると、かつての鉄道開拓者の大変な苦労が旅情に重なり、鉄道の重要さをより深く理解できます。
 義経の謎は、奥州での自害した史実よりも英雄伝説に人気があります。彼には、蝦夷(北海道)へ渡り、大王になったとか、大陸に渡り、ジンギスカン(チンギス・ハーン)と名乗り、ユーラシア大陸を疾走し大帝国を築いたとか、との伝説があります。これらの虚実はともかく、義経伝説には、夢と推理があり、楽しそうです。これには、源義経が多くの古典(歴史書や物語など)に書かれ、歌舞伎や能、人形浄瑠璃など多くの演目で演じられている背景もあるようです。まさに、一人の人物が描かれ、登場するのは、稀有なことです。
 今回は、虚実が入り混じりましたが、今後、歴史学や考古学の分野における文献・資料調査、発掘調査や現地踏査をふまえ、新しい事実が発見されて、史実や事実の解明が進むでしょう。また、鉄道技術も新幹線を旗手として日進月歩しています。さらに、架橋技術も進歩・発展しています。いずれも現場での地道な努力が積み重ねられ、問題や課題が解決され、実社会で生きるのです。
 一言でいえば、実事求是。

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