吉岡 泰亮(立命館大学)

 みなさまは「水道」という言葉が日本に生まれたのはいつだと思いますでしょうか。諸説ありますが、1つの説として、天正18(1590)年、徳川家康が建設を命じて、のちに「神田上水」と呼ばれるようになる用水だとされています。神田上水は、井の頭池(現・東京都三鷹市)などを水源とし、約20kmあまりの水路で江戸市中まで導水したうえ、木や石で作られた樋で配水するものです。完成は寛永6(1629)年頃とされています。
 実はそれに先立つかもしれない都市型上水道が存在しているのをみなさまはご存じでしょうか。今回のコラムでは、北陸の福井県福井市における「芝原上水(芝原用水)」を取り上げてみたいと思います。

 戦国時代、今の福井県北部を支配した武将の朝倉氏が居城を構えたのは、前回の小生コラム(2021.01.04)でも触れた通り、現在の福井市中心部から東南方向に約10km離れた山間の地「一乗谷」でありました。しかし、織田信長との戦い(1573年)に敗れて朝倉氏が滅亡した後、福井を治めた柴田氏は、一乗谷ではなく、現在の福井市中心部(JR福井駅周辺)に「北庄城」を構えました。しかし、豊臣秀吉との戦い(賤ヶ岳の戦い)に敗れ、天正11(1583)年に自害に追い込まれてしまいます。
 江戸時代になり、徳川の世になってから、関ケ原の戦いで徳川方の勝利に貢献した結城秀康(徳川家康の次男)が福井を治めるようになり、やがて松平の姓を名乗り、越前松平家の祖となります。
 その結城秀康は福井藩主になって早々の慶長6(1601)年、福井城下の水問題を解決するために「芝原用水」の建設を命じ、家老の本多富正らが建設を進めました。福井城下の地下水は鉄分が多く、飲用には向かなかったとされています。そのため、福井市中心部から北東に10km近く離れた九頭竜川の鳴鹿堰(現:永平寺町)で取水し、福井城下まで導水せざるを得ませんでした。完成は慶長12(1607)年とのことであり、建設距離の違いがあるとはいえ、福井の芝原用水の方が神田上水より完成は早いことから、これが「日本で最初の都市型上水道ではないか」という所以です。
 明治時代中期に入ると、近代的な「水道」が全国に相次いで整備されるようになり、福井市でも大正13(1924)年に市域の上水道が完成したことにより、芝原用水は水道としての役割を終えます。暗渠化も進み、人々の目に触れることも少なくなっていったのですが、平成以降、親水空間としての整備が行われた箇所もいくつかあります。
 前置きが長くなりましたが、ここからは現在の福井市街地にみられる芝原用水の痕跡を少したどってみたいと思います。
 写真1および2は、福井市志比口(えちぜん鉄道「福井口」駅そば)にある「川上神社」です。

写真1:川上神社(福井市志比口)の全景
写真2:川上神社の境内を流れる芝原用水

 もともとは芝原用水の起点に近い現在の永平寺町にあった同神社が、江戸時代末期の慶応元(1865)年に、現在の場所に遷座したとされています。このあたりで芝原用水は二手に分かれています。1つは福井城のお堀へと続くルート。もう1つは城下町の生活用水としてのルートでした。この先は福井城のお堀へ続くルートをたどってみます。

 写真3は、福井市立郷土歴史博物館(福井市宝永)の裏手にある福井城の外堀です。

写真3:福井市立郷土歴史博物館の裏手に復原された福井城外堀(芝原用水)

 もともと同館は福井市民の憩いの場でもある足羽山(あすわやま)の上にあったものですが、2004年に現在の場所に移転しています。その建設工事の際、発掘調査で福井城の外堀の遺構が発見されました。この写真の中ほどに小さく見えている「舎人門(とねりもん)」のそばでは、当時の石垣も出土しています。そこでこのあたりの整備にあたり、一部を当時の外堀の幅に近づける(写真手前の広くなっている部分)などの修景がなされました。
 また芝原用水は、途中である屋敷に引き込まれています。その屋敷は、福井市立郷土歴史博物館に隣接する養浩館庭園(旧御泉水屋敷)です(写真4)。芝原用水は家老職直轄の「上水奉行」が管理を担当するほど、用途が厳しく制限されていましたが、福井藩主の別邸である御泉水屋敷は例外でした。ここは福井城の本丸から北東に約400mという位置にあり、福井城の外堀の土居に接しています。

写真4:御泉水屋敷の様子。冬に備えてむしろで養生されているのは、長さ5m・幅90cmもの巨大な自然石でつくられた芝原用水から庭園に引き込まれた水路にかかる橋。

 明治維新以降、福井城は政府の所有となりますが、御泉水屋敷は引き続き松平家が所有します。明治17(1884)年には、松平春嶽によって、「養浩館」と名付けられました。中国の思想家である孟子の言葉に由来するとされています。大正2(1913)年には、元首相であった大隈重信が福井に訪れた際にもてなす場となるなど迎賓館的な役割を果たします。
 1945年の福井空襲で建物は焼失しますが、庭園は当時の姿を残していたため、1982年には庭園が国の名勝に指定されます。これを機に、江戸末期(1820年代)の絵図を基にした復原整備が進められ、1993年に完成しています。建物の復原に際しては、発掘調査で出土した遺構の上に直接建築するという手法が採用されています。そのため、建物の座敷からは、かつての藩主と同じ目線で庭園を眺められます。
 庭園には、福井藩内の三国で産出された安島石(あんとういし)や、敦賀半島で産出されたピンク色の花崗岩(かこうがん)、足羽山で産出された笏谷石(しゃくだにいし)のつくばいなどがあり、2019年5月には日本遺産「福井・勝山石がたり」の構成遺産の1つにも選定されています。

 2024年3月の北陸新幹線金沢~敦賀間開業で、福井市とその周辺は首都圏からのアクセスが飛躍的に改善されています。ここで紹介したような痕跡を訪ねてみるのはいかがでしょうか。

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