松 優男(内外エンジニアリング株式会社)
岐阜県多治見市は古くから美濃焼の産地として知られているが、2007(平成19)年8月16日に当時の日本国内の最高気温である40.9℃を観測しており、「暑い町」としても知られている。その多治見市では多治見市駅北土地区画整理事業の一環として虎渓(こけい)用水広場(多治見駅北広場)が2016(平成28)年6月に整備された。虎渓用水は多治見市を流れる一級河川土岐川から取水する用水で、かつて農業用水として利用されていたが、農地の消滅により現在では環境用水として多治見駅北広場に導水され、豊かな水辺環境を創出している。多治見市の地球温暖化対策の重点プログラムにも虎渓用水の活用を挙げており、「暑い町」における環境用水の経緯について紹介する。

土岐川から農業用水を取水する計画は1731(享保16)年にさかのぼるが、いずれも失敗に終わっており、土岐川の北側に位置する地域ではため池を水源としていた。1891(明治24)年に発生した濃尾地震によってため池が利用できなくなり、用水不足に陥った。そのころ、中央本線の敷設工事が開始され、市の東部に位置する虎渓山裏側の隧道工事が開始された。そこで地域の住民は中央本線隧道工事を設計した技師に調査を依頼したところ、比較的安価で工事が可能であることが判明し、当時の豊岡村が1901(明治34)年3月に工事を開始し同年9月に虎渓用水は竣工した。
しかし、中央本線が開通すると周辺にはしだいに住宅が建ち始め、水田が住宅地へと変わっていった。大正末年には耕地整理組合整理が組織され、区画整理を行い用水は市街化に伴い防火用水、生活雑排水路として利用されるようになった。その後、1950(昭和25)年に虎渓用水水利組合が設立され、用水の維持と防火に対処することとなった。さらに、1983(昭和58)年には下水道工事がすすみ用水路は暗渠化されてその上は歩道に変わった。農民の悲願を込めた用水であったが、都市化のテンポは速く、農業用水としての期間は短かった(『多治見市史 通史編 下』、多治見市、1980)。
土地区画整理事業における虎渓用水広場の整備計画は、2000(平成12)年に市が立ち上げた市民検討会「多目的広場ワークショップ」によって検討が行われていた。市民検討会は土地区画整理組合の組合員、地権者が主なメンバーである。2008(平成20)年には多治見市商工会議所が主体となった「虎渓用水の復元・再生プロジェクト」が発足し検討が行われていた。これらの動きを受ける形で2010(平成22)年には、「多治見駅北地区における虎渓用水を活用した水と緑の委員会」が設けられ、検討を重ねたデザイン案に市民から募集した意見検討を反映し作成された。委員会は地権者、専門家(樹木、水生生物等)、市、観光ボランティア等から構成された。そうして、歴史的施設である虎渓用水を活用した多治見駅北広場が2016(平成28)年6月に開園した。
一方で虎渓用水は慣行水利権であり、河川管理者から許可水利権にするよう求められており、数十年来の課題となっていた。そうした中で残存していた農業用水の活用について国と協議を重ねる中で環境用水の提案を受けた。駅北広場のデザインがワークショップで協議されていく中で必要水量を算出し、2015(平成27)年8月に環境用水水利権を獲得した。虎渓用水の目的は、修景、水質保全並びに親水空間及び水生生物生息域の維持と創出であり、取水量は1年を通し0.27㎥/sである 。
令和3年3月に中間見直しが行われた第3次多治見市環境基本計画では、ミスト設置やクールアイランド製品の普及とともに、虎渓用水広場の管理を挙げており、環境用水が夏の暑さ対策の施策の一つとなっている。