秋山道雄(滋賀県立大学・名誉教授)
仙台市の中心は宮城県庁や仙台市役所が立地しているJR仙台駅の西側である。駅の東側は駅周辺から市街地化が進んでいるが、少し先には田園地帯が広がっている。人口100万人をこえる大都市でこれほど近いところに広大な農地が存在しているのはめずらしい。田園地帯のさらに先で仙台駅から10kmほどのところを南北に展開しているのが貞山(ていざん)運河である。運河から少し東に行くと太平洋と出会う(図1)。

(出典:一般財団法人 貞山運河ネット。掲載許諾済)
私が初めて貞山運河を訪れたのは、2007年秋のことである。郊外に展開する農地と農業用水路を眺めながら東方に進んでいくと、松林の列が目に入ってきた。現地にたどり着いて目にした貞山運河のたたずまいは、松林と見事に溶け合っていた(写真1)。木々の連なりとその間を縫って静かに流れる水の動きとが生み出す地域景観は、その成熟に相応の時間が経過したことをうかがわせていた。

通常、貞山運河と呼ぶのは図1にみるように、木曳堀(こびきぼり)、新堀(しんぼり)、御舟入堀(おふないりぼり)を合体した部分を指す。木曳堀と御舟入堀は、伊達政宗が1600(慶長5)年に仙台の青葉山に居城を築く準備を始めたころから、城と城下町建設のための物資を運搬するために建設されたものである。建設時期に諸説はあるが、阿武隈川と名取川を結んだ木曳堀は1615(慶長20)年から1624(寛永元)年頃の建設、七北田川河口と塩釜港を結んだ御舟入堀は1664(寛文4)年から1673(寛文13)年の建設と伝えられている。その間を流れる新堀は、1878(明治11)年から1882(明治15)年に士族授産を目的に建設された。したがって、江戸時代には仙台市内の新堀は存在せず、200年間ほどの空白期間がある。
1883(明治16)年になって、木曳堀、御舟入堀、新堀が大改修された際、宮城県の土木課長が伊達政宗の戒名にちなんでこれら3つの堀をまとめて貞山堀と命名した。続く1889(明治22)年に宮城県が「運河取締規則」を定めた際に、ここを貞山運河と命名した。以後、この名称が継承されて今日に至っている。それゆえ、貞山運河は近代の所産といえよう。
現在、貞山運河の南半分は一級河川名取川水系、北半分は二級河川七北田川水系に属する法定河川である。管理者の宮城県は、運河としての機能を失った当地を観光やレクリェーション、環境教育等に利用するため、整備と広報を進めてきた(写真2)。また新堀が存在する仙台市は、1971年に貞山運河とその周辺を都市計画の対象として海岸公園に指定した。そのため、貞山運河から太平洋岸にかけては、乱開発の波に洗われることなく成熟期の地域景観を維持することができていた。そこを別の波が襲って、この地の景観は一変した。

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とそれに伴う大津波によって、これまで蓄積されてきた貞山運河の資産は失われた(写真3)。明治期の新堀建設時以降に植えられたクロマツが成長し、成熟したたたずまいを見せるまでに数10年から100年ほどの時間を要している。宮城県は2013年に「貞山運河再生・復興ビジョン」を策定し、復旧から復興への筋道を示した。東日本大震災から10余年を経て、市民やNPOも復興に向けた多様な動きをみせている。大震災前には、環境資源の保全に関わる一つのモデルを示していた当地である。関係者の協働によってその再生を目指していくという心意気が、次の世代に伝わっていくことを衷心より期待したい。

※本稿脱稿後、一般社団法人貞山運河ネットの佐藤四郎事務局長より、資料を頂きました。
最近の貞山運河の情報は、下記サイトより閲覧できます。
https://teizanunga.net/