山元 周吾(喜代七屋)

 滋賀県に「朝鮮人街道」と呼ばれる道があることをご存知でしょうか。私も滋賀県出身で、現在も一部に「朝鮮人街道」と呼ばれる道筋が残っていることは知っていましたが、その成り立ちまではつい最近まで詳しく知りませんでした。琵琶湖の東岸を通るその街道は、江戸時代に朝鮮通信使が通行した道として由来があります。対馬から瀬戸内海を経て上方へ入り、京都を通過し、江戸へ向かった通信使の行列。その足跡が、近江の地に名を残しました(図1)。
 しかし、通信使が歩いた陸路だけが日朝交流の舞台ではありませんでした。むしろ、その背後には海峡を越える水のネットワークが存在していました。山陰の山地流域で生産された鉄や銀は、日本海沿岸の港へ運ばれ、対馬海峡を越えて朝鮮半島の蔚山(うるさん)へと接続します。陸の街道が制度化された外交の表舞台であったとすれば、海と流域は資源と経済を支える裏舞台だったのかもしれません。
 本稿では、山陰、対馬、蔚山を結ぶこの水のネットワークに着目し、鉄と銀の生産、海峡外交、そして島嶼環境を環境史の視点から再構成してみたいと思います(図2)。

図1:朝鮮通信使の行程概略図(「朝鮮通信使に関する記録」を参考に筆者作成)
漢陽(ソウル)から蔚山と釜山、対馬、瀬戸内海、京都・近江を経て江戸へ至る通信使の行程。
図2:山陰・対馬・蔚山を結ぶ位置関係図(筆者作成)
石見・奥出雲、対馬、蔚山の位置関係を示す概念図。
石見地方を起点に、対馬と蔚山が海域ネットワーク上で近接する。

1.山陰地域の流域と鉄の環境史

 2025年12月に島根県雲南市と大田市、2026年2月には長崎県対馬市を訪問する機会がありました。雲南・奥出雲地域は、砂鉄を用いたたたら製鉄が発展し、日本の鉄生産を支えた歴史を持つ地域です。雲南市吉田町に残る菅谷たたら山内(すがやたたらさんない)は、近世たたら製鉄の姿を今に伝える貴重な遺構です(写真1)。製鉄技術の基礎は、古墳時代後期に朝鮮半島を経由して日本列島にもたらされた可能性が高いとされています。
 しかし、日本列島、とりわけ中国山地では鉄鉱石よりも砂鉄が豊富でした。そのため、砂鉄と木炭を用いるたたら製鉄は、日本列島の地質、森林、水資源に適応しながら独自に発展していきました。外来の技術が、その土地の環境条件と結びつくことで、日本独自の製鉄体系へと変化していったのです。たたら製鉄では、鉄穴流し(かんなながし)によって山を削り、流水で砂鉄を採取します。この工程は流域地形を大きく改変しました。さらに、砂鉄を還元するためには大量の木炭が必要となり、森林管理も重要になります。たたら製鉄は単なる製鉄技術ではなく、山、森、水、人の労働を一体化した流域全体の環境利用システムでした。

写真1:菅谷たたら山内の現在(2025年12月筆者撮影)
山あいに形成された製鉄集落の姿から、たたら製鉄が単なる炉の技術ではなく、森林、水、労働、居住を含む流域型の生産システムであったことがうかがえる。

 菅谷たたらのような製鉄場では、砂鉄と木炭を炉に投入し、長時間操業することで、炉の底に大きな鉄塊ができます。この鉄塊は鉧(けら)と呼ばれます。鉧の内部には、炭素量の異なる鉄が混在しており、そこから銑(ずく)や玉鋼などが選別されました。玉鋼は刀剣などに用いられる高品質な鋼として知られています。たたら製鉄によって生産された鉧は選別・加工されたのち、銑や玉鋼といった鉄素材として、川舟や馬によって沿岸港へ運ばれました。その後、日本海や瀬戸内海の海路を通じて全国へ流通しました。流域から港へ、港から海へという構造は、すでに近世に確立していました。
 雲南市吉田町にある鉄の歴史博物館には、奥出雲で生産された鉄の流通経路を示す展示があります。そこには、山間部で生産された鉄が、馬や川舟、さらに海路を通じて大阪や各地へ運ばれていた様子が示されています。この展示から見えてくるのは、奥出雲が単なる山間の生産地ではなく、全国的な流通網に接続された資源供給地であったということです(写真2)。こうした国内流通の成熟は、山陰地域が海域ネットワークの後背地として機能する前提にもなりました。山陰の山間部で生産された鉄は、内陸で完結するものではありませんでした。水の流れに沿って港へ運ばれ、そこから海へ出ていく資源だったのです。

写真2:鉄の歴史博物館の正面(2025年12月筆者撮影)
館内には奥出雲で生産された鉄が、
川舟・馬・海路を通じて全国へ流通したことを示す展示資料もある。

2.石見銀山と東アジア銀経済圏 ― 銀が動かした海域世界

 山陰地域の大田市には、「石見銀山遺跡とその文化的景観」として2007年にユネスコ世界遺産に登録された石見銀山があります。大田市は、かつて日本最大級の銀山であった石見銀山を擁する地域です。石見銀山は16世紀前半に本格的な開発が始まりました。戦国期という動乱の時代にあって、その存在は単なる地域鉱山にとどまらず、やがて東アジア規模の経済構造を左右する資源拠点へと成長していきます。
 石見銀山の発展を決定づけたのは、灰吹法(はいふきほう)と呼ばれる精錬技術の導入でした。この技術は中国や朝鮮半島に起源を持つと考えられており、日本に伝来した後、石見の地で本格的に活用されました。銀鉱石を鉛とともに加熱し、不純物を除去して高純度の銀を抽出するこの方法は、それまでの技術と比較して飛躍的に効率が高く、大量生産を可能にしました。ここでも重要なのは、技術の伝播と環境条件の結合です。灰吹法そのものは外来技術でしたが、それを受け入れ、独自に実用化し、大規模な生産体制へと転換させたのは、石見地方の地質条件と水資源、そして労働組織でした。
 銀の採掘には坑道掘削が不可欠でしたが、地下水の処理が大きな課題となります。坑道からの排水、洗鉱に用いる水、精錬工程に必要な燃料資源。これらはすべて流域環境と関係していました。銀山は山中に位置しながらも、周辺の河川と密接に結びついていました。銀の生産は、山地環境と水資源を前提とする流域システムの中に組み込まれていたのです。やがて石見銀山の銀は、日本国内の流通を超え、東アジア交易の中核を担うようになります。明代中国では、16世紀を通じて銀の流通と租税の銀納化が進み、銀が経済の基軸的な役割を果たすようになりました。その結果、日本産銀の需要は急増します。
 石見で生産された銀は、日本海沿岸の港へと運ばれました。温泉津(ゆのつ)や鞆ヶ浦(ともがうら)などの港は、銀の積出港として機能しました。そこから博多や堺の商人、また対馬を含む海域ネットワークを介して、朝鮮半島や中国大陸へと流通していきました。ただし、石見銀山の銀が常に対馬を経由したと断定するには、個別史料の精査が必要です。ここでは、石見銀山の銀が東アジア交易の中に組み込まれ、その中で対馬が日朝貿易の重要な結節点であったという構造を確認しておきたいと思います(写真3)。さらに、南蛮貿易を通じて、日本銀は東南アジアやヨーロッパの商業ネットワークにも接続されました。16世紀後半、日本は世界有数の銀供給地となり、いわばグローバル経済の一翼を担っていたと言えます。

写真3:石見銀山世界遺産センターの正面(2025年12月筆者撮影)
館内には日本銀が明・朝鮮との交易に組み込まれていたことを示す
展示資料「日明・日朝貿易と日本銀」もある。

 ここで改めて注目すべきは、水の役割です。銀の生産は流域に依存し、流域は港へ接続し、港は海へ開かれていました。銀は山から海へと下り、海峡を越えて流通しました。この一連の動きは、水のネットワークを媒介にして成立していました。雲南・奥出雲地域の鉄が流域環境に根ざした産業であったように、石見銀山もまた水資源と密接に結びついた環境史的存在でした。鉄と銀はいずれも山陰地域の山地流域に起源を持ちながら、やがて港と海を介して広域世界へと組み込まれていきます。

3.石見・対馬・蔚山という三角構造

 ここで、山陰、対馬、蔚山の位置関係に目を向けたいと思います。島根県立大学の故井上厚史氏は、石見地方を起点として、対馬と韓国蔚山市を結ぶと、ほぼ等距離の二等辺三角形を形成する位置関係にあることを指摘しています(井上、2016)。この指摘は、地図上の単なる幾何学的な面白さにとどまりません。石見は銀の産地であり、山陰の鉄の流通圏とも接続していました。対馬は日朝交流の海峡結節点であり、蔚山は、李氏朝鮮時代には塩浦として日本との通交に関わった港湾地域であり、対日交流の拠点の一つでした。この三地点を結ぶと、山地流域、島嶼、朝鮮半島南部が一つの海域ネットワークとして浮かび上がります(図3)。
 井上氏はまた、対馬を経由して南道と山陰石見地方との間に密接な交流があり、互いの文化や風俗の往来を想定してみることは興味深いテーマであると述べています。この視点は、本稿の問題意識と深く関わります。鉄や銀といった物質的資源だけでなく、人、技術、言葉、風俗、思想もまた、海峡を越えて移動していた可能性があるからです。つまり、山陰は単なる資源の生産地ではなく、海へ開かれた流域の後背地でした。対馬はその資源や人の移動を受け止める海峡の結節点であり、蔚山は朝鮮半島側の接点でした。この三角構造を意識することで、鉄と銀の歴史は、山陰内部の産業史にとどまらず、東アジア海域史の中に位置づけることができます。

図3:石見・対馬・蔚山の三角構造(筆者作成)
石見地方、対馬、蔚山の位置関係を示し、
山陰の流域資源が海峡を介して朝鮮半島南部へ接続する構造。

4.海峡外交の形成 -李藝から雨森芳洲へ

 この海域ネットワークを考える上で欠かせないのが、外交の役割です。山陰の流域で生産された鉄や銀が港へ運ばれ、海峡を越えて朝鮮半島へ接続していくためには、航路の安全、相互の信頼、そして通交を支える制度が必要でした。資源の流通は、単なる経済活動ではなく、政治的・外交的な秩序の上に成り立っていたのです。
 15世紀、朝鮮側の外交官であった李藝(りげい)は、倭寇問題や被虜人送還などをめぐる交渉に尽力し、日朝間の海域秩序の形成に深く関わりました。李藝は蔚山出身とされ、李氏朝鮮時代の対日外交の最前線で活動した人物です。井上厚史氏の論考では、李藝が朝鮮王朝の外交使節である「日本回礼官」に随行して日本へ渡り、石見国へ漂着した可能性が取り上げられています。また、当時の西日本で大きな影響力を持っていた大内氏を介して、倭寇などによって朝鮮半島から連れ去られた人々を送り返す「被虜人送還」が行われたことも論じられています。これらは、石見と朝鮮南部の間に具体的な接点があったことを示す重要な手がかりです。
 李藝の時代は、まだ日本銀が本格的に国際流通する以前でした。この時期の日朝関係では、倭寇問題の調整、被虜人の送還、通交秩序の形成が重要な課題でした。また、鉄や銅、硫黄、刀剣などが交易品として大きな意味を持っていました。つまり李藝は、銀経済が本格化する前段階において、不安定な海域秩序を整える役割を担っていたと見ることができます。
 その後、16世紀に石見銀山の銀が東アジア交易へ組み込まれ、17世紀以降には江戸幕府と朝鮮王朝の関係が制度化されていきます。その象徴が朝鮮通信使です。朝鮮通信使は、李氏朝鮮から徳川幕府へ派遣された公式外交使節団であり、対馬から瀬戸内海を経て上方へ入り、京都・近江を通って江戸へ向かいました。その一行が近江で通行した道が、冒頭で触れた朝鮮人街道です。
 対馬を訪れると、この島が単なる国境の島ではなく、日本と朝鮮半島を結ぶ外交と交易の最前線であったことが実感されます。金石城(かねいしじょう)跡周辺には、対馬藩宗家の政治的中心地としての面影が残されています。また、対馬藩お船江跡は、藩の船を係留・管理した施設であり、海上交通を支えた実務的な基盤でした。外交や交易は、理念や制度だけで成り立つものではありません。船を管理し、港を維持し、航路を確保する具体的な施設があって初めて、海峡を越える交流は可能になりました(写真4および5)。

写真4:金石城跡周辺の様子(2026年2月筆者撮影)
対馬藩宗家の政治的中心地であった金石城跡周辺
写真5:対馬藩お船江跡地(2026年2月筆者撮影)
対馬藩宗家の藩船を係留・管理したお船江跡。対馬が海峡外交を担う政治拠点であると同時に、海上交通を支える実務的基盤を備えた島であったことを示す。

 この近世の外交を支えた人物の一人が、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)です。雨森芳洲は、現在の滋賀県長浜市高月町雨森の出身で、京都で医学を学んだ後、江戸に出て朱子学者・木下順庵の門に入りました。その後、木下順庵の推挙によって対馬藩に仕え、朝鮮語を学びながら、対馬藩の外交実務を支える重要な人物となりました。芳洲が掲げた理念として知られるのが、「誠信の交わり」です。相手を欺かず、誠実に向き合うことが、持続的な関係の基礎であるという考え方です。これは単なる道徳論ではなく、海峡という緊張空間で日朝関係を安定させるための実務的な外交思想でもありました。
 2026年2月に対馬を訪れた際、私は雨森芳洲ら家族の墓所を訪ねました(写真6)。また、金石城跡周辺には芳洲を顕彰する遺構もあり、そこには「誠信之交隣」という言葉が刻まれていました(写真7および8)。対馬の地で芳洲の足跡に触れると、滋賀に生まれた人物が、海峡の島で朝鮮との外交に尽力していたことの重みを改めて感じます。

写真6:雨森芳洲の墓所(2026年2月筆者撮影)
対馬市厳原町にある雨森芳洲の墓所。
対馬の地に残る墓所は、江戸時代の日朝交流と
海峡外交の記憶を現在に伝えている。
写真7:朝鮮通信使と雨森芳洲に関する現地説明板(2026年2月筆者撮影)
雨森芳洲墓所の入口付近に設置された説明板。朝鮮通信使の行程や、
対馬藩に仕えた雨森芳洲の役割が紹介されている。
対馬が朝鮮通信使を迎える海峡外交の重要な舞台であり、
芳洲がその実務と思想を支えた人物であったことを示している。
写真8:金石城跡に刻まれる「誠信之交隣」の碑(2026年2月筆者撮影)
金石城跡周辺に残る「誠信之交隣」の碑。雨森芳洲が重視した「誠信」の理念は、相手を欺かず、誠実に向き合うことを外交の基本とする考え方である。
この碑は、対馬藩に仕えた芳洲が日朝外交を思想的・実務的に支えた足跡と、
対馬に刻まれた海峡外交の記憶を伝えている。

 滋賀県に残る朝鮮人街道と、対馬に残る芳洲の墓所。その二つは、陸路と海路を通じて日朝交流の記憶を現在に伝えているように思えます。現代の国際関係を考えるとき、隣国との関係を対立や緊張だけで捉えるのではなく、言葉を学び、相手を理解し、信頼を積み重ねようとした人物が江戸時代に存在したことは、改めて注目すべき歴史だと感じます。
 李藝と雨森芳洲は、時代こそ重なりません。しかし、両者はいずれも対馬海峡を舞台とする日朝関係の安定に深く関わった人物です。李藝が中世の不安定な海域秩序を整える外交官であったとすれば、芳洲は近世に制度化された通信使外交を思想的・実務的に支えた人物でした。
 江戸時代、日本と朝鮮は約200年にわたり、大規模な武力衝突を回避し、通信使を通じて外交関係を維持しました。山陰地域の鉄や石見地方の銀が海を介して広域世界へ接続していく背景には、こうした海峡外交の安定がありました。対馬は、水のネットワークの結節点であり、同時にそのネットワークを維持するための外交の島だったのです。

5.対馬の島嶼環境と固有種

 対馬を考える上では、外交や交易だけでなく、島嶼環境にも目を向ける必要があります。なぜなら、対馬は日本列島と朝鮮半島を結ぶ海峡の結節点であると同時に、急峻な山地と小規模な流域によって成り立つ島でもあるからです。外に向かっては交易や外交の最前線であり、内側では限られた水資源と森林環境に支えられてきた。この二重性こそが、対馬の歴史を特徴づけています。
 対馬北部にある韓国展望所から海を眺めると、対馬が朝鮮半島に近い島であることを実感します。晴れた日には韓国の山並みすら見えることもあるそうです。この距離感こそ、対馬の歴史を形づくってきました。近いからこそ交流が生まれ、近いからこそ緊張も生まれました。対馬海峡は、隔てる海であると同時に、つなぐ海でもありました(写真9)。
 一方で、島内に目を向けると、対馬は急峻な山地が海に迫る島です。平地は限られ、複雑な入り江と小さな流域が連なっています。流域は短く、水資源は決して豊富とは言えません。このような島嶼環境では、森林の維持が水循環の安定と直結します。森林が失われれば、土砂流出が進み、水源が不安定化し、港湾や集落にも影響が及びます。つまり、対馬における水資源管理は、生活基盤であると同時に、生態系の維持にも関わる課題です(写真10)。

写真9:対馬の韓国展望所(2026年2月筆者撮影)
対馬北部にある韓国展望所。晴天時には朝鮮半島を望むことができるとされ、対馬が
日本列島と朝鮮半島の間に位置する海峡の島であることを実感できる場所である。
外交・交易の結節点としての対馬の歴史は、この地理的な近さと深く結びついている。
写真10:入り江が連なる対馬の島嶼景観(2026年2月筆者撮影)
山が海に迫り、複雑な入り江が連なる対馬の景観。平地が限られ、小規模な流域が海へ短く流れ込む地形は、対馬の水資源や森林環境のあり方を特徴づけている。
海に開かれた島であると同時に、
島内の水循環と生態系に支えられた島嶼環境であることを示している。

 このように、対馬の島嶼環境を考えるとき、森林や水資源は人間の生活基盤であるだけでなく、島に固有の生きものを支える基盤でもあります。そのことを象徴する存在が、ツシマヤマネコです。ツシマヤマネコは、日本では対馬だけに生息する野生のネコで、ベンガルヤマネコの亜種とされています。1971年に国の天然記念物に指定され、1994年には種の保存法に基づく国内希少野生動植物種に指定されました。現在は、生息環境の悪化や交通事故などにより個体数が減少し、保護増殖事業が実施されています。
 対馬野生生物保護センターを訪れた際、ツシマヤマネコの保護に関する展示を見学しました。そこで感じたのは、ツシマヤマネコの問題は、単に一つの希少種を守る問題ではないということです。ツシマヤマネコが生きるためには、森林だけでなく、農地、水辺、草地、集落周辺を含むモザイク状の環境が必要です。そのため、ヤマネコの保全は、島全体の水循環、森林、農地、道路、集落のあり方と深く関わっています。言い換えれば、ヤマネコを守ることは、対馬の流域環境そのものをどのように維持していくかという問いでもあります(写真11)。 
 対馬には、ツシマテン、ヤマショウビン、マナヅル、ヒトツバタゴ、オウゴンオニユリなど、貴重な動植物も生息しています。これらの存在は、対馬が単なる交易や外交の島ではなく、独自の生態系を持つ島嶼環境であることを示しています。

写真11:対馬野生生物保護センター(2026年2月筆者撮影)
対馬野生生物保護センターの外観。
ツシマヤマネコをはじめとする対馬の希少野生生物の保護活動を紹介する施設であり、
島の森林・農地・水辺環境が固有種の生息を支えていることを学ぶことができる。

 対馬は、島の外から来る人や物を受け止め、別の地域へとつないでいく中継点のような島でした。その意味で、対馬は日本列島と朝鮮半島を結ぶ「仲介型島嶼」と言えます。しかし同時に、対馬はツシマヤマネコに象徴される固有種の島でもあります。銀や鉄は海を越えて移動できますが、ツシマヤマネコは対馬の環境の中でしか生きられません。この対比は、外へ開かれた交易ネットワークと、島内に根ざした生態系との緊張関係を象徴しているように思います。
 山陰地域の鉄と銀が海へ出て、対馬を介して朝鮮半島へ接続していくとき、その流れを支えたのは、単なる航路だけではありませんでした。そこには、船を管理する港湾施設、外交を担う人々、相互理解を支える思想、そして島の水と森がありました。対馬は、水のネットワークの結節点であると同時に、そのネットワークを維持するための外交と独自の環境をもつ島だったのです。

6.島嶼環境の比較から見る水のネットワーク ― 島嶼環境から見た対馬の位置づけ

 ここで、以前に別の記事で取り上げたモーリシャスの島嶼環境と比較してみたいと思います。もちろん、対馬とモーリシャスは、その規模も、時代背景も、地理的位置も、関係した人々や政治体制も大きく異なります。対馬は東アジアの海峡に位置する島であり、モーリシャスはインド洋に浮かぶ外洋島です。両者を同じ条件で比較することはできません。それでも、この二つの島を並べて考える意味があります。それは、島嶼環境が外部世界とどのように結びつき、その中で水資源や森林、生態系がどのように利用され、変化してきたのかを比較するためです。島は海によって隔てられている一方で、海によって外部世界とつながっています。しかし、そのつながり方は島ごとに異なります。ある島は資源を大量に生産する場となり、ある島は人や物、情報を媒介する中継点となります。モーリシャスと対馬を比較することで、対馬がどのような性格を持つ島であったのかが、よりはっきり見えてきます。
 モーリシャスは、インド洋の外洋島であり、ヨーロッパ植民地帝国のネットワークに組み込まれました。島は、海上交通の補給拠点であると同時に、砂糖プランテーションを中心とする単一商品作物の生産地として開発されていきました。その過程で森林は大規模に伐採され、水は灌漑インフラとして再編されました。つまり、モーリシャスは外洋型・生産型島嶼として、外部市場に向けた資源生産の場となったのです。
 これに対し、対馬は境界型・仲介型島嶼でした。対馬は、島内で大規模な商品作物を生産する島ではなく、日本列島と朝鮮半島を結ぶ海峡の中継点として機能しました。山陰地域等で生産された鉄や銀、人や情報、外交使節が海峡を越える際、対馬はその流れを受け止め、調整する場所でした。したがって、対馬の歴史的役割は、資源を大量に生産することよりも、外交と交易を媒介し、海峡秩序を維持することにありました。
両者はともに海に開かれ、外部世界との関係の中で歴史を形成してきた島です。しかし、水資源の位置づけは大きく異なります。モーリシャスでは、水は主としてプランテーション生産を支えるために動員されました。水路、貯水、灌漑は、砂糖という輸出作物の生産を最大化するためのインフラとして整備されました。その結果、森林の大規模な改変や固有生態系への影響が生じました。
 一方、対馬では、水は島内生活と森林生態系を支える基盤でした。急峻な山地と短い河川、小規模な流域によって構成される対馬では、水資源は決して無尽蔵ではありません。森林が水源を支え、流域の安定が集落や港湾、そしてツシマヤマネコをはじめとする固有種の生息環境を支えています。対馬での水は、輸出作物のために大規模に動員されるものではなく、島内の生活と生態系の均衡を維持するための基盤でした。
 この比較から見えてくるのは、島嶼環境には複数の型があるということです。モーリシャスは、帝国経済を支える外洋型・生産型島嶼でした。これに対し、対馬は、海峡秩序を支える境界型・仲介型島嶼でした。どちらも海に開かれた島ですが、水資源の使われ方と環境改変の規模には大きな違いがありました。この対比を踏まえると、対馬の特徴がより明確になります。対馬は、外に向かっては外交と交易の結節点でありながら、内に向かっては小規模流域と固有生態系を抱える島でした。海へ開かれている一方で、島内の水循環と森林環境には強く制約されていたのです。この二重性こそが、対馬の歴史を考えるうえで重要です。
 ここまで見てきたように、山陰地域の鉄と銀、対馬の外交、蔚山との交流、そして島嶼環境は、別々の歴史ではありません。それらは、水によって結ばれた一つの歴史構造の中にあります。雲南・奥出雲のたたら製鉄では、水は砂鉄を採取するために使われました。石見銀山では、水は坑道排水や洗鉱、そして港湾への流通と関わりました。山陰地域の資源は流域を通じて港へ運ばれ、海へ出て、対馬海峡を越えました。そして、その海峡における交流を安定させるために、李藝や雨森芳洲のような外交官が活動しました。
 滋賀県の朝鮮人街道から始まった問いは、やがて山陰地域の流域、石見銀山、対馬海峡、蔚山へと広がりました。陸の街道が制度化された外交の表舞台だったとすれば、海と流域は、その背後で資源と経済を支える水の舞台と言えるのではないでしょうか。山陰から対馬へ。対馬から蔚山へ。そして、朝鮮通信使の行列は、再び日本列島の陸路を進み、近江を通って江戸へ向かいました。
 この循環の中に、鉄と銀、外交と思想、島嶼環境と水資源が重なり合っています。山陰、対馬、蔚山は、分断された地域ではなく、水のネットワークによって結ばれた一つの歴史空間として捉えることができます。そして、その視点は現代にもつながると思います。地域の資源、流域の環境、海域を越える交流、島嶼の生態系は、いずれも個別に存在しているのではありません。水を通じて相互に関係しながら、社会と環境の歴史を形づくってきました。鉄と銀の歴史をたどることは、過去の資源利用を振り返るだけでなく、流域と海域、外交と環境をどのように結び直すかを考える手がかりにもなると思います。


主な参考文献

  • 文化庁「日本遺産ポータルサイト:出雲國たたら風土記」
    https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story034/
  • 文化庁「日本遺産ポータルサイト:奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」
    https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/2237/
  • UNESCO World Heritage Centre, Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape https://whc.unesco.org/en/list/1246/
  • 島根県・大田市関連資料「石見銀山遺跡とその文化的景観」https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/publication/index.data/4-1_Japanese.pdf
  • 井上厚史(2016)「李藝と石見のつながり-『朝鮮王朝実録』『同文彙考』『漂人領来謄録』を手がかりとして-」『北東アジア研究』第27号, https://www.u-shimane.ac.jp/files/uploads/hokutou27_5.pdf
  • 文部科学省「『朝鮮通信使に関する記録』のユネスコ『世界の記憶』への登録について」
  • 彦根観光協会「石碑 朝鮮人街道」
    https://www.hikoneshi.com/sightseeing/article/chosenjin-kaido
  • 環境省「ツシマヤマネコ保護に関する取り組みの概要」 https://www.env.go.jp/nature/kisho/hogozoushoku/pdf/tushimayamaneko.pdf
  • 環境省・対馬野生生物保護センター関連資料
    https://www.torayama-twcc.jp/tsushimacatreport/
  • 韓国民族文化大百科事典「倭館」
  • 山川出版社『日本史小辞典』「三浦」項目
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