若井 郁次郎
【事務局広報室より】
若井理事より、連載企画の(6)と(7)をご投稿頂いております。広報室(旧広報委員会)担当者の都合により、掲載が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
まず、今回は(6)を掲載させて頂きます。8月下旬をめどに(7)も掲載予定ですので、ご期待ください。
膨らむ物産流通
人類の社会の成り立ちの教えによれば、人は、食べ物や水などを求めて移動する家族生活から、いくつかの家族が集まって定住する社会生活を始めたようです。安全で安心できる、豊かな共同生活を続けられる社会づくりを考え、やがて社会の人数が増え、利用する土地が広がると、安定的に治める工夫が必要になります。ここに政(まつりごと)という考えが芽生え、その象徴として都が造られます。
都づくりには、天皇をはじめ、貴族、役人など官位・官職のある人たちだけでなく、土木・建築工事や運搬などの労務を担うたくさん人の力を合わせることが大事です。都ができあがると、さまざまな物産や物品を商う人、礼服から普段着までの衣服や、日用の制作・製作にすぐれた技能をもつ職人と、実に幅広い人材が都に集まってきます。今日の第三次産業、サービス産業に区分されている人びとです。
さて、都の造営と維持管理の基本は、多くの労働力と確かな財力を背景に、都や周辺の地域社会の平穏で便利な暮らしを守ることです。たとえば、道や水源の整備など、社会基盤の配置など生活に欠かせない公共サービスが求められます。ここに、原資となる税という考えが生まれ、日本では、中国の租庸調の税制度を学び、701年の大宝律令で取り入れられました。租庸調は、米を納める租、都での労役か、布などの物納かによる庸、特産物の絹や漆などを納める調からなるものでした。この税制は、その後の日本の税制の原点となり、後世の米本位制、貨幣本位制へと受け継がれていきます。ここでは、物産の流通を促した、租庸調の租と調を取り上げ、物流を大きく発展させた主要因の人口からみることにします。
794年、桓武天皇による遷都・平安京では、人口集積が進みました。この地に、どのくらい人が住み、暮らしていたか、気になるところです。平安京の歴史上の推計人口は、5万人から20万人の範囲にあったようです。ここでは、平安時代の推計人口を10万人と仮定します。この人口規模の都市をわかりやくするため、2025年10月1日の推計人口でみると、特別区の東京都を除き、日本全国の792都市のうち、約10万人規模の都市は、254位の沖縄県の宜野湾市が位置しています。今日では人口10万人の都市は、全国に散在していますが、平安京に10万人が住んでいた史実は、驚くべきことです。
米の流通の大変さをみましょう。当時の米の消費量は、成年男子は、1年間に約150キログラム(1石)の米を消費していたようです。2023年度(令和5年度)の日本人1人当たりの年間の米の消費量51.1キログラムと比べると、今日の日本人は、当時の3分の1と、少ない米の消費です。平安京に住む10万人が1年に150キログラムの米を消費するとして、年間に1.5万トンの米を供給する必要があります。水田の少ない平安時代にあっては、大変な量です。大量の米をどの土地から、どのように運ぶか、とても大きな問題です。最初は、平安京の周辺の農村から運ぶにしても、増え続ける人口に応じて配給するには限界があります。水田の開発は都からしだいに遠くなり、運ぶ米の量も増えます。
ここで、米の量を実感してみましょう。現在でも、農業で用いられる単位の反(たん)は、太閤検地によるそうです。それによれば、1反は1石の米が取れる基準面積として、田んぼの面積で養える人数を把握できるよう、米1石を買える金額は1両と定められました。式にすれば、
水田面積1反=米収穫量1石=1人あたりの米の年間消費量1000合=貨幣価値1両
となります。
当時の米は、主食であり、貨幣でもあったのです。これが、米を基本とする経済の米本位制の所以です。その後、米本位制としつつも、信用力が高く、交換や持ち運びに便利な金貨(小判など)や銀貨(丁銀など)、銭貨(文銭)などの貨幣が大きな役割を担うことになり、貨幣本位制の実態へと移っていきます。
こうして、税の礎となった米に加え、重い塩、腐食しにくい乾物、染料なども運ばれるようになり、都へ向かう物流は広がり、膨らみ続けます。その中間となる琵琶湖は、湖上物流で大役を果たし続けます。
御食国から都へ届けられる海産物
若狭湾一帯は、西の舞鶴から東の敦賀まで約70km続く、きれいなリアス海岸です。このリアス海岸の中央に位置するのが小浜です。両側を半島で抱かれた、リアス海岸の湾奥にある小浜は、北は小浜湾に面し(写真1)、南は丹波高地や比良山地に取り囲まれています。

(2025年8月、筆者撮影)
かつて若狭の国は、御食国(みけつくに)と呼ばれたように、昔も今も海産物がとても豊かです。グルメの国・若狭から内陸の歴代の都へ、朝廷や将軍に献上する魚介類が運ばれていました。その出発地が、小浜でした。小浜で水揚げされた魚介類で今もよく知られているのは、鯖でしょう。鯖は、傷みが早いため、一塩して小浜から京都へ陸路で一昼夜かけて運ばれたようです。陸路で小浜から京都まで一昼夜かけて鯖などの海産物を運びました。当時、健脚の運搬人は、1日で走破したようですが、実際には、多くの運搬人が中継しながら運んだのが実情と思います。かつては「京は遠ても十八里(約70km)」といわれた、鯖街道(日本遺産認定)の名は、当時のにぎわいを伝えています(写真2、写真3)。
鯖街道だけでなく、小浜から丹波高原の峠越えで都につながる道、小浜から熊川宿を経由して琵琶湖に至る道、比良山系の背後を抜け途中や大原を経て都につながる道など、いくつかの経路があります。また、小浜から熊川宿を経て今津に至る街道は、九里半街道(約38km)と呼ばれていました。

(2025年8月、筆者撮影)

(2025年8月、筆者撮影)
小浜から内陸の都へ通じる街道は、鯖街道のほか、いくつも拓かれます(図1)。おもな街道を例示しますと、京都の丹波高地の山間を通り抜ける長坂街道、比良山系の西側を流れる安曇川沿いに進む大原経由の朽木街道、小浜から熊川宿(標高97m)を通り、琵琶湖岸の今津に至る九里半街道があります(写真4)。これら3街道のほか、天候不良や崖崩れなどの自然災害で通行不能なとき、う回できる道も造られていました。

出典:『福井県史』通史編2(中世)P811 第五章第一節二「若狭街道」より
「デジタルアーカイブ福井」掲載画像を引用

(2025年8月、筆者撮影)
さて、海産物などの軽い荷物は、少なければ、人力、牛や馬、荷車で運べますが、米本位制の時代になるにつれ、米や塩など重い荷物が増えてきます。そうなると、人力、牛や馬、荷車では限界があります。たとえば、牛であれば、3俵(180kg)までで、人力では不可能です。荷車も街道の悪い路面では早く傷み、修理に手間取ります。こうした重い物を短い時間で遠くへ運ぶ手立てが必要になります。そこで、真水を湛える広い琵琶湖に船を走らせる考えが、自然に思いつきます。海辺の小浜から最短で重い荷物を琵琶湖北西岸に運べる今津は、うってつけの港です。今津は、陸送よりも多くの荷物を一度に早く運べる船の出入りが便利な重要な拠点になっていきます(写真5)。現在の今津港は、沖に浮かぶ竹生島への船便が就航しています。今津のほか、少し南の高島の勝野なども同じ役割をもちました。

(2025年8月、筆者撮影)
それでは、小浜で取り扱われた荷物を見ましょう。たとえば、北前船が活躍していた当時の荷物は、表1のとおりです。この表より、小浜へ運ばれて来る荷物は、蝦夷(現北海道)からの海産物が多く、大豆や木材もあります。一方、小浜から運び出される、おもな荷物は、京都と大坂で一定加工された生活必需品です。行き来する荷物の違いがはっきりし、後世の日本の加工貿易の遠い姿を見ているようです。
表1:小浜を出入港する北前船の積荷

しばしば挑むも未完の水路・運河
若狭湾のリアス海岸の東端に敦賀湾があります。敦賀は、この深く切り込む湾の最奥部に立地し、背後には野坂山地が南西から北東へ斜め方向に走っています。野坂山地を横断して、敦賀と琵琶湖を結ぶ陸路の距離は、約30km(七里半越)と、意外にも短いですが、野坂山地の鞍部にあたる山中峠(標高389m)や、深坂峠(標高370m)などの難所を越える必要があります(図2)。にもかかわらず、敦賀は、古くから京都や大坂と北陸を結ぶ要衝であったことから、峠越えの人、牛や馬、荷物の往来が盛んでした。当時の峠越えの苦難の事情と往来の過密とが相まって、敦賀と琵琶湖を最短で直結する水路づくりが浮上するのは自然でした。
浮上したのは、敦賀へ流れる笙ノ川と、敦賀から最短の湖北の塩津へ流れる大川とを利用する、2つの構成案です(写真6)。前者は、琵琶湖の水を敦賀方面へ直接に流す案、後者は、笙ノ川と大川の自然流路を利用し、両者の河川の途中は峠を通る街道で結ぶ案の2つがありました。前者は一貫した舟運、後者は舟運-陸運-舟運です。

出典:『敦賀市史通史編上巻』(敦賀市史編さん委員会、1985年)より引用。

(2025年8月、筆者撮影)
しかしながら、これらの強い念願は結局、形にすることができませんでした。気がかりなことは、その要因や原因は何か、です。ここでは、いくつかの水路づくりの構想・計画の概要を例示しながら、厚く、高い壁に直面した歴史的変遷を記録や伝承も含めて追います。
12世紀の平安時代にさかのぼると、平清盛は、経済感覚に優れ、貿易・交易を重視していました。その一例が日宋貿易です。海の支配・掌握は、大きな財力の源泉となる貿易・交易の基盤と位置づけていました。当然ながら、人流や物流の大動脈でもあった琵琶湖や若狭湾方面にも視野に入れていました。平家一門の全盛期の1166年ごろ、清盛は、長男の重盛に敦賀と琵琶湖を結ぶ運河づくりを命じます。しかし、開削工事は困難中の困難となり、しかも大きい岩を掘ると、多くの作業員が腹痛を起こしたことから中断し、地蔵として祀りました。長浜市西浅井町にある「深坂地蔵」(堀止地蔵とも呼ばれる)は、その堅い大きな岩に由来しているとされます。運河づくりを中断させた岩ですが、古くから岩を砕く方法は、岩の表面を焚き火で高温にしてから、一気に水をかけて急冷し、岩にひび割れを生じさせ、砕き掘り崩す工法です。深坂峠でもおそらく同じ工法であったと思われます。威力のあるダイナマイトによる発破技術や、削岩機などの強力な建設機械が使える現在では、容易な工事ですが、当時の土木工事の実情を物語っています。このような古来の火と水を使用した岩の破壊は、土木工事の機械化施工が進むまで使われます。
江戸時代に入り1669年(寛文9年)、京都の町人・田中四郎左衛門は、敦賀-琵琶湖間を敦賀-疋田-新道野-沓掛-塩津で結ぶ水路計画を打ち出します。計画は口上書での出願でしたが、敦賀湾内の塩業者や、洪水を心配する流域村民、塩津と競合する大浦や海津(写真7、写真8)などの湖上水運業者の反対にあい、実現しませんでした。おそらく運送にかかわる利害が衝突したのでしょう。計画を諦めない田中四郎右衛門は、翌年の1670年(寛文10年)、敦賀-追分と沓掛-塩津の区間は川船で、追分-沓掛の区間は人馬で運ぶ計画案を提出するも却下されます。これでも諦めない田中四郎右衛門や岡嶋屋源右衛門ら6名は、1696年(元禄9年)に再再度、難所の深坂を掘り抜き、琵琶湖の水を疋田川に流し、川船で荷物を運ぶ計画案を幕府に出し、許可され、この年の8月に書類と設計書を敦賀の町奉行に出しました。翌年の1697年(元禄10年)6月に役人が現地検分するも敦賀郡内の村や海津の反対により中止されました。三度にわたる計画を実現しようとした田中四郎右衛門は、敦賀と琵琶湖を結ぶ水路の実現により、水運において莫大な投資効果が得られることを見通していたと想定されます。

(2025年8月、筆者撮影)

(2025年9月、筆者撮影)
約50年後の1720年(享保5年)、幸阿弥伊予ら6名は、幕府勘定所へ敦賀-塩津の区間の約20km(5里)に水深約60cm(2尺)の疏水を通し、船の利用できない箇所は、陸送するとしたうえで、西廻航路に代わり、琵琶湖の水が流れ出る瀬田川を浚渫し、大坂へ運ぶ計画を提出するも、1721年(享保6年)に却下されます。
1672年(寛文12年)、江戸の豪商・河村瑞賢は、酒田(山形県)から日本海沿岸を西に進み、下関(山口県)から瀬戸内海に入り、紀伊半島をくるりと回り、太平洋沿岸を北へ走り、江戸(東京)へ米を運ぶ、西廻航路や東廻航路を開きます(図3)。

出典:土屋潤・増渕文男「河村瑞賢による西廻り航路の港について」
(土木学会『土木史研究講演集』、Vol.23、2003年、pp.177~180)
※土木学会承認済み(2026.07.10)
これに対抗しようと、田中四郎右衛門や幸阿弥伊予らは、西廻航路よりも短時間・短距離で、しかも風や波が大きく荒れる冬でも、大坂へ米や塩などの荷物を運べ、関係地域の交通社会的便益の増進できる、水路計画を立案していたと考えられます。
敦賀と琵琶湖の間に水路を造る動きは続きます。やがて幕府は、重要で必要な事業だと、気づきはじめます。敦賀という交通中継点を治めていた、小浜藩主・酒井忠貫(第10代)は、商品の流通により得られる税収入が大きいことから、敦賀経由の交易を盛んにする狙いもあり、1815年(文化12年)、敦賀-琵琶湖間の水路工事の可否を現地踏査で確かめるよう、指示しました。
翌1816年(文化13年)、小浜藩が動きます。普請奉行の小浜藩家老・三浦勘解由左衛門が施工管理者、大坂の餝(飾の異体字)屋六兵衛が資金を出しました。この年の3月より開削工事が始まり、7月に工事が終わりました。水路は、川幅約2.7メートル(9尺)、疋田から敦賀まで約6.5キロメートルの舟川でした。まさに急速施工です。8月には疋田まで完成し、疋田から大浦までは牛車により峠越えで運ばれました。しかし、続く疋田から上流への水路工事は完成せず、疋田までの舟川も1834年(天保5年)には全区間廃止されてしまいました。現在、疋田(福井県敦賀市)には、船着き場が再現されています(写真9)。

出典:敦賀市立博物館Webサイト「ブログ」内
「つるが歴史遺産 疋田舟川」掲載写真を引用。
※敦賀市立博物館承認済み(2026.07.03)
この間、加賀藩は、京都や大坂へ米や塩をいち早く送りたい、との思いから家臣・松田信正の敦賀琵琶湖間の測量を命じます。その成果が、1823年(文政6年)に作られた「越前近江糧道測量絵図」です(図4)。

原図:一般財団法人高樹会蔵、射水市新湊博物館保管
射水市新湊博物館Webサイト掲載のものを転載。
※一般財団法人高樹会承認済み(2026.07.29)
やがて国内は外圧により揺さぶられます。事件は、ペリー艦隊の来航でした。1853年(嘉永6年)7月、アメリカ政府から派遣されたペリー司令長官が率いる、蒸気フリゲート(護衛任務)艦2隻と、帆走フリゲート艦2隻とからなる4隻の艦隊が浦賀沖に到着するや、日本国内では「黒船来たる!」と大騒動になっていました。船の船体が黒色のため「黒船」と呼ばれました。これ以前にも多くの外国船が日本にきていますが、アメリカ合衆国大統領親書を届けるために日本にやってきた正式のものでした。江戸幕府にとっては、大きな衝撃となり、以後、日本の鎖国から開国へと大きく転換する契機となりました。
開国の是非について右往左往する国内事情を背景に、西廻航路に加えて、敦賀-琵琶湖-京都の物流経路を整える機運がまたしても盛り上がり、1855年(安政2年)、京都町奉行の与力らが敦賀、疋田、大浦の道路や流路を検分しのち、1857年(安政4年)にも京都奉行所や京都の商人の一行が敦賀や疋田を検分しました。この一行には小浜藩の関係者も加わり、水路や道路を整える案に加わったようです。水路計画案は、敦賀から疋田まで前述の1816年と同じ川幅約2.7メートル(9尺)とし、ここに長さ約5.5メートル(3間)、幅約2.1メートル(7尺)の船を通すものでした。疋田より南の深坂峠への旧道は、改修されるも難路で連絡が良くないことで利用されなくなります。
1867年(慶応3年)、尊王攘夷派の1人である小沢一仙が、「敦賀・琵琶湖間運河計画」を加賀藩に提出しました(図5)。

原図:一般財団法人高樹会蔵、射水市新湊博物館保管
射水市新湊博物館Webサイト掲載のものを転載。
※一般財団法人高樹会承認済み(2026.07.29)
黒船来航以後の外国船の出現が増えたことや、長州藩外国船砲撃事件(長州事件)など国内政情を背景に、西廻航路の輸送貨物のハイリスク・ノーリターンを避けるため、敦賀-琵琶湖を結ぶ水路開削の必要度が高まり、江戸幕府は、加賀藩(石川県)に敦賀-琵琶湖間の掘割水路の単独事業として許可します。加賀藩は、関孝和の和算を学び、測量術や天文暦学に精通し、「加越能三州郡分略絵図」などの精密な地図を作成した、石黒信由(富山県射水郡(射水市)出身)の測量術を受け継いでいた孫・北本半兵衛と、ひ孫・石黒信基の両名に、事業実現の基礎となる敦賀・琵琶湖間の精密測量を命じます。測量成果は、1867年(慶応3年)に作成された「越前国敦賀ヨリ近江国深坂通リ塩津マテ直高図」(略して直高図)にまとめられます。
直高図は、基準線に沿い距離と測量地点の高さ(水準)とを立体的に表示した、とても便利な実用的な図で、現在でも土木工事で活躍しています。石黒信基らが作成した直高図は、実務に適した図です。これには、1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで10次にわたり全国を測量し、日本全国の地図を作成した、伊能忠敬の測量技術の影響もあったと思われます。
明治時代になると、開国により欧米から工学・技術情報と建設機械がどっと入ってきます。特に大きなニュースは、北アメリカと南アメリカの両大陸を結ぶ地峡を横断する、パナマ運河の建設の知らせでしょう。パナマ運河では、二つの水面に水位差がある場合、2つの閘門に挟まれた区間に船を入れた後、船が進む方向にある第三の閘門を開け(閉め)て水面を均す、閘門方式が採られています。スエズ運河(閘門のない水平運河。1859年着工、1869年完成)の建設者であった、フランス人・レセップスの主導により1881年、建設工事が始まるも、会社の倒産などで、途中、アメリカが受け継ぎ、1914年に完成します。なお、パナマ運河の建設には、日本人技師・青山士(あおやま あきら)が参加しています。以上の一連の運河建設情報は、日本の技術者にとって敦賀-琵琶湖間を直結する水路開削が実現できるという自信の気運をもたらしました。
1873年(明治5年)、吉田源之助は、「阪敦運河計画」を立案します。おそらく彼は、スエズ運河やパナマ運河の計画の動きを知っていて、構想・計画を練り始めたと思われます。阪敦運河計画は、敦賀から琵琶湖を通り、瀬田川-宇治川-淀川を経て、大阪に至る水路です。敦賀湾と琵琶湖の水位差は85mあることから、人工運河を造り、途中には閘門をもうけて、10,000トン級の船を航行できる運河計画です。建設の予算確保などの事情などから、ようやく1905年(明治38年)、貴族院で採択されるも日露戦争のため中止になります。
しかし、阪敦運河計画は、子供の吉田幸三郎にさらに引き継がれ、「阪敦大運河計画」が構想されます。やがて計画は、1923年(大正12年)に「阪敦運河開鑿計画」としてまとめられ、おおやけになります。水路は、阪敦運河計画とほぼ同じルートの敦賀-琵琶湖-瀬田川-宇治川-淀川-大阪です。このルートで閘門方式により3,000トン級の船と4,000トン級の軍艦を通航させる計画でしたが、大きな建設費用が必要となることと、戦費が優先された事情より中止になります。阪敦運河計画と阪敦運河開鑿計画の二つの計画において、明確な数字は明示されていませんが、全長は約150~180km、幅は約85mと見なされています。なお、閘門方式は、ヨーロッパのライン川などの国際河川で多く取り入れられています。
1933年(昭和8年)、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎は、1914年のパナマ運河完成に触発されたのでしょうか、閘門方式による「大琵琶湖運河計画」を提案します。計画は、吉田源之助、吉田幸三郎の親子2代にわたる運河計画案の影響もあったようです。田辺朔郎の計画案は、ルート全長は明らかにされていませんが、敦賀-塩津間の川幅は約85m、水深は約10mとし、10,000トン級の船を通すと想定しています。田辺朔郎の琵琶湖運河計画案では、満州や朝鮮半島と、京阪の工業地帯を結ぶ物流ネットワークを築くものでした。しかしこちらも総事業費は約5億7,665万円と大きく、工期は10年の長期であったため、当時の大陸経営の悪化により中止になりました。
第二次世界大戦が終わり、1963年(昭和38年)を迎えると、本州横断運河構想が出てきます。これは、高度経済成長期の1960年代前半、日本海と太平洋をつなぐ構想として浮上してきました。その後、国土計画の一環として、1966年(昭和41年)に制定されました中部圏開発整備法に基づき、「中部圏開発整備計画」や「中部圏基本開発整備計画」に取り入れられたようです。計画の大略は、敦賀-琵琶湖-名古屋を結ぶ運河を造り、国内だけでなく、韓国の釜山との物流の強化を進めようとした。だが、高度経済成長期の日本では、次世代を担う、鉄道や道路の整備が急速に進み、実現しませんでした。
これまで記述してきたように、敦賀と琵琶湖を1本の水路で結ぶ水路(運河)の構想・計画は、すべて実現しませんでした。古くは土木技術の限界が理由であり、近年では土木技術の機械化によって水路開削の困難さは克服できるようになったものの、小口輸送の便利さをもつ鉄道や自動車による陸上輸送の追い上げ、追い越しです。各時代の輸送需要の変化は、物流を支える輸送機関の盛衰に大きな影響を及ぼすともみることができます。しかし、水の浮力を活用する水運は、今後も重要といえます。
城下の港・長浜
長浜城は、1574年(天正2年)に羽柴(豊臣)秀吉により築城がはじめられ、1575年(天正3年)に完成した、といわれています。秀吉は、長浜城より琵琶湖の舟運、特に長浜港に出入する船の賑わいを見て、流通経済の動きを確かめていたと思われます(写真10、写真11)。

(2025年8月、筆者撮影)

(2025年8月、筆者撮影)
これは、織田信長が旧来の楽市楽座による既得権益の壁を徹底的に壊し、自由に商いができる、楽市楽座を革新した、商業政策から学んだようです。秀吉は、信長の楽市楽座の考えを一歩前進させ、商業の自由化の促進に加え、都市政策として城下町・長浜の活性化につなげました。そして、町の活性化の事実を長浜城よりしっかりと見届けていたのでしょう。また、秀吉は、計数管理を重く見ていたことから、琵琶湖の水運の量的把握と統治のため、すべての船に焼印を押して隻数を調査し、隻数帳を作らせたようです。隻数帳には、水夫(加子とも書かれる)の人数も書かれていた、とのことです。
長浜は、近在の米原(米原市)、松原(彦根市)と合わせて「彦根三湊」と呼ばれていました。これらの港は、彦根藩の経済を支えていました。特に米蔵(米屋敷)が建ち並ぶ大津への年貢米積み出しの役割は大きかったようです。
しかし、湖上水運は、順調ではありませんでした。具体的には、堅田(大津市)の浦は、湖上を通る船を非常事態から守る名目で警護料(関銭)をとっていました。これは現在の水先案内の役を務めていた、と筆者は思っています。また、琵琶湖が最狭部にある堅田付近は、意外にも季節により湖水の流れの急変や、比良山系の局地気象の変化により、夏にはサキ、冬には日嵐と呼ばれる南西からの強風や烈風により水上事故が起こりやすい難所でした。堅田は、瀬戸内海で大きな力をもっていた村上水軍と同じように、航路の安全を守っていたことから、近年では悪の集団の海賊と区別するため、「湖族」と表示されています。
もう一つは、「大津百艘船仲間」という大きな権利をもつ集団があります。その例として、艫折(ともおれ)廻船のルールです。琵琶湖の湖上輸送には、主に丸子船が使われていました。港に船が入ると、艫(後尾)から岸に着け、荷物の荷下ろしと、積み出しをします。後続の船は、沖で待ちます。艫折廻船の権利のない船は、優先順番外となり、別扱いになります。時に、艫折廻船のルールが守られず、紛争になったようです。
琵琶湖で大活躍した丸子船は、幅が狭く、喫水が浅い船で帆走と櫂で走ります。イメージしやすくするため、例示すると、百石積の丸子船は、長さ約10.3m(3丈4尺)、幅約2.1m(7尺)、深さ約1m(3尺3寸)です。特徴は、船側の外側に縦半分に切った丸太(重木、主木とも書く)を取り付けられています。重木の役割は、船の安定を保つためであったようです。米などの重い荷物をたくさん船に積むと、船が不安定になりやすくなるため、重木は、船の傾きや転倒を防ぐためです。水理学では、船の重力が、浮力の位置より下にあれば、船は安定します。逆の場合、船は横転します。
やがて長浜も、今津、塩津、大浦、海津と同じように西廻航路の影響を直に受け、次第に活気を失うことになります。
水運よりも治水の優先要所・瀬田川
奈良時代の僧侶である行基は、道路、橋、港、堀川、ため池など多くの土木事業に関わり、取り組んだと伝承されており、その活躍は琵琶湖の唯一の出口・瀬田川でも見られます。それは、琵琶湖周辺でのはん濫の原因(瀬田川の狭窄部で流れが止められ、バックウォ-タによるはん濫と推察)が、瀬田川の狭窄部にあると見たことから、瀬田川洗堰の少し上流の左岸に位置する大日山(標高129メートル)を切り取る計画でした(写真12)。しかし、下流へのはん濫を心配し、断念したようです。

(2025年8月、筆者撮影)
1699年(元禄12年)、河村瑞賢は、瀬田橋-瀬田川洗堰の区間の左岸を切り取る一方、大日山南東山麓あたりに中州が複数あった、黒津八島(八州とも書く。おそらく多くの洲という意味。)を浚渫し、真っ直ぐに流路を整え、うち高い洲を残し、二つの島にしました(図6)。これらの工事により、瀬田川の通水がよくなり、水害が減ったようです。浚渫などに要した工事費は、琵琶湖岸の200余村の負担としており、すでに受益者負担の考えが芽生えていたようです。

上:「陸地測量部二万分一地形図「瀬田」明治25年測量」。
中:「国土地理院二万五千分一地形図「瀬田」昭和29年(1954)測量」。
下:「国土地理院二万五千分一地形図「瀬田」平成8年(1996)部分修正」。
3点とも、公益財団法人滋賀県文化財保護協会ホームページ
「新近江名所圖会 第315回 琵琶湖の制水門-大津市南郷洗堰と瀬田川洗堰」より転載。
※公立財団法人滋賀県文化財保護協会承認済み(2026.07.07)
以後も琵琶湖周辺で洪水がたびたび起こるも、時が過ぎていきます。琵琶湖治水に立ち上がったのが、瀬田川より遠く離れた湖北、高島郡深溝村(高島市新旭町深溝)の庄屋の藤本太郎兵衛(初代直重)でした。彼は、1781年ごろ(天明年間)より、湖辺の村村を訪ね、まとめ、江戸幕府より瀬田川浚渫の許可をえて、1784年(天明4年)より工事を始めます。しかし、おそらく工程管理や人員配置の不十分さから、2年で工事は中断します。諦めきれない2代目太郎兵衛(重勝)は、瀬田川下流の村村へ説得し、1791年(寛政3年)、江戸に出向き、老中・松平定信に浚渫工事の許可を直訴するも、受け入れられませんでした。この請願は、3代目太郎兵衛(清勝)にも引き継がれ、ようやく江戸幕府より瀬田川浚渫の工事が許可され、1831年(天保2年)より本格的に工事が始まります。この工事の特徴は、幕府や藩の御普請と異なり、自普請(地元負担)によるところにあります。今日の民活事業です。浚渫工事のあらましは、工期は約5カ月、瀬田川全長14kmの区間に、延べ約31万人の労働者(主に農民)が投入され、工事費は7,650両(約2億5,000万円)の大工事でした。この半世紀に及ぶ偉業は、「天保の御救大浚え」(てんぽうのおすくいおおざらえ)と呼ばれ、後世に伝えられています。
瀬田川は、琵琶湖の治水にとって重要な流路であり、しかも琵琶湖のたった一つの出口です。しかし、物流についても、重要とみられていました。
瀬田川は、古来、京都や大坂への物資の主な水運ルートという伝承があります。記録では、1614年(慶長19年)9月、徳川幕府は、角倉與一(角倉了以の子供)への音信で「瀬田川航行計画」らしき内容を伝えたようです。幕府では、瀬田川の航行の可否を問い、たとえ不可でも岩石を砕き、琵琶湖沿岸の洪水を防げれば、6.7万石(1石=2.5俵=約150kgとして約10,050トン)相当の新田を、さらに23尺(約7m)水位を低下できれば、20万石(約30,000トン)相当の新田を開発でき、下流の摂津や河内の洪水をも減らすと伝えています。角倉了以は、1614年(慶長19年)7月に死にますが、徳川幕府は、保津川や高瀬川などの河川改修工事に優れた実績がある角倉了以に「瀬田川運行計画」の構想について相談していた、と推察されます。その了以の生前の気持ちは、與一に伝えられていたようですが、実現には至りませんでした。
狭隘な瀬田川の航行にかかわる2つの案が出てきます。宝永(寶永)年間(1704年-1711年)、田邊三郎兵衛(詳細不明)は、幕府の許可をえて、瀬田と宇治の間に小さな船で柴や薪を運んだようです。また、宇治の代官・上林峰雄も瀬田と宇治の間の通船計画を立案します。しかし、短い区間での通船であり、改修工事までできなかったようです。このような事情があって、1775年(安永4年)に通船許可権を宇治の高瀬舟の所有者・嘉兵衛に譲ります。許可された貨物は、瀬田より下流の村からの炭と薪と材木の3種にかぎるもので、本格的な荷物の水運ではありませんでした。
瀬田川の通船計画に彦根藩がいたく関心を示します。1805年(文化2年)、彦根藩の勝手方・西村彦之丈亟らは、瀬田川通船計画を実現し、当時、彦根藩の米を大津に寄港することなく直接、京都へ運ぶことを企画し、現地視察を済ませ、準備を進めますが、大津商人ら多くの関係者から苦情が多数出たため、中止になりました。加えて、黒船の来航や、瀬田川通船による大津での荷物量の減少など、大津商人の不安が高まったことも大きな要因になったようです。
瀬田川は、通船と琵琶湖の治水との二大問題を抱え続けますが、明治になり、琵琶湖の治水について、近代の治水の考えと技術が展開されることになります。その旗手が、南郷洗堰です。1896年(明治29年)に制定された「河川法」にそって、淀川改良工事の一環で、瀬田川の拡幅と浚渫により琵琶湖と淀川下流の洪水を防ぐ目的で、1902年(明治35年)、近代土木技術による工事が始められます。特に瀬田川の浚渫や川幅の拡幅、大日山の切り取りです。これにより、下流への流水量が増え、洪水が心配されることから、水量調節の役割を担うために造られたのが、南郷洗堰です。堤長約180m、水門32の南郷洗堰は、1905年(明治38年)に完成します。当時の材料は、レンガ、石、木(角落し)でした。木製の角落しは、水門の開閉用で、人力で操作していました。危険な作業であったと想像されますが、熟練の技で慎重に板を取り扱っていたと思います。南郷洗堰は、1961年(昭和36年)に役割を終え、瀬田川洗堰と交代しますが、一部は、瀬田川に現存しています(写真13)。

(2025年8月、筆者撮影)
それから58年が経過した1961年、南郷洗堰の後継の瀬田川洗堰が完成します(写真14)。南郷洗堰から約120m下流にできた、瀬田川洗堰は、堤長約173m、10水門をもちます。水門は、電動で開閉できる鋼製のローラーゲートです。現地に行くと、かつて活躍した南郷洗堰と、瀬田川洗堰の二つの雄姿を目の前でみることができます。

(2025年8月、筆者撮影)
こうした琵琶湖、特に瀬田川の通船問題は、やがて琵琶湖疏水計画へ集約されていきます。これについては、次回の連載(7)で紹介する予定です。
ここで、筆者が考える瀬田川の水運の困難さを述べたいと思います。その第一は、瀬田川下流の狭さがあります。本当に狭い峡谷です(写真15)。しかも両岸ともに巨石で覆われています(写真16)。第二は、急流でなく激流です。とても船で下るには、難船リスクが大き過ぎます。たとえ激流下りができても、途中で大破するか、転覆するでしょう。積荷も水浸しになり、商品価値はゼロになります。まさにハイリスク・ノーリターンです。精々、筏下りでしょう。第三は、小型で、平らな船底の高瀬船で川を下るとして、下流から上流への船の移動がほぼ無理です。動力船がない時代、数人の力持ちが高瀬船を数隻まとめて綱を引き、上流へ引っ張り続ける必要があります。この綱引きには、川沿いに専用の細い道を必要とします。犬走り、キャットウォークの名で呼ばれる細長い通路です。たとえば、京都の高瀬川の二条から五条の区間の水際で見られます。第四に、激流での操船技術に長けた船頭が必要です。熟練と経験を重ね、激流の特性を知り尽くした、まさにプロの名にふさわしい船頭です。これは、本当に難しい人材確保問題です。

(2025年8月、筆者撮影)

(2025年8月、筆者撮影)
寸言
今日では、観光やレジャーでにぎわう琵琶湖ですが、近年までは、湖国の繁栄の浮き沈みの鍵となる、日本海と琵琶湖を結ぶ水路や運河の構想・計画が現れては、消えていく挑戦の歴史そのものでした。その要であったのが、湖上物流を支える、街道(道路)・港づくりにおいて、多くの開明的な先人が、並々ならぬ心血を注いできました。この挑戦についての紹介は次回も続きます。
筆者は、今回の随想執筆にあたり湖北のいくつかの旧港を訪ね、ひさしぶりに琵琶湖を一周したことに、懐かしくも感慨深いものがあります。といいますのは、高校2年生の春休み、友人2名とともに、3名で1泊2日の琵琶湖一周サイクリングに出かけました。当時、乗用車やトラックの交通量が少なく、道路舗装も不十分な、ひどい道路を普通の自転車でひたすら走り続けました。
このときの経験は、前回と同じ友人2名とともに、企画した高校卒業記念「紀伊半島1周サイクリング」につながります。このサイクリングは、6泊7日でした。紀伊半島の悪路を普通の自転車で走破するという、今から思えば、無謀に近いサイクリングでした。宿泊は、小学校などに飛び込み、宿直の先生や関係者にずいぶんお世話になり、今も感謝し続けています。目に焼き付いている光景は、自転車を押し、あえぎながら着いた、国道42号の矢ノ川(やのこ)峠(標高807メートル。現在は、新国道となり、いくつかのトンネルで熊野市と尾鷲市を結ぶ)での登りのつらい思い出と、峠から眼下に見えた尾鷲三田火力発電所(廃止)の光かがやく夜景でした。
サイクリングの実体験をふまえ、道路、鉄道、港、空港、橋、上下水道、電力、通信などの社会(資本)インフラの整備は、強い国土経営や地域活力の源泉になる、と今も痛感しています。これらがあってこそ、経済や産業が大きく発展し続けるのです。世界を見渡して、社会インフラ整備の良否を調べると、発展する国と、そうでない国とがはっきり読み取れます。この差は、ますます開きつつあります。ぜひ世界の社会経済発展の見方に加えてください。
先人がたゆまず取り組んできた琵琶湖につながる水路や運河づくりの夢は、湖上物流を善くし、より早く荷物を届け、顧客満足をえたい、との気持ちが詰まっていたにちがいありません。一言でいえば、時短経済。