若井 郁次郎
局地風による湖上物流リスク
琵琶湖の西岸や湖北には、琵琶湖西岸断層帯、湖北山地断層帯、野坂・集福寺断層帯など、いくつもの活断層帯が、ほぼ南北方向に走っています。このような場所では、山が湖岸に迫り、直ちに陸が水面下に潜り込む、急峻な地形を見せています(写真1、写真2)。まさに「山高ければ谷深し」です。

(2025年4月、筆者撮影)

(2025年9月、筆者撮影)
風は一般に上空ほど強風になります。この強風が、湖西の比良山地や、湖北の野坂山地の山を越え、山間や峠を通り抜け、琵琶湖に一気に流れ込みます。平らな湖面の琵琶湖に上空の強い風が流れ込むと、抵抗するものがないため、容赦なく吹き荒れます。穏やかな日和と異なり、この強風の怖さは、実感しにくいです。
筆者は、高層建築物の環境アセスメントに携わり、高層建築物の地上付近における風被害を模型実験で検証する機会がありました。上空の強風は、高層階にあたると、高層建築物の壁面にそって急降下し、高層建築物の近辺にいる歩行者の転倒や、工作物の破損を引き起こす事故の原因になります。また、高層建築物に真っ向からの風が、高層建築部の前面の壁にあたり、分流すると、側面の壁に沿って縮流し、風速が増して、高層建築物の背面で乱流となり、風被害が生じることがあります。風の流れは、複雑ですが、最悪の風の影響を想定し、強風による事故や被害の未然防止が大事です。具体的には、高層建築物の風被害を軽減する効果的な環境対策として1階~2階の周囲に低木や中木で植栽される事例が多いです。
台風や竜巻で強風を実感できますが、日常では、六甲おろしで始まる「阪神タイガースの歌」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而)で風の強さを想起できます。神戸も、六甲山系と、前面の瀬戸内海との位置関係から、湖西や湖北と同じように、山上から山麓の神戸の町に吹き下ろす風が強い場所です。この神戸の地形特性が開港に有利になります。前の海が深い神戸は、水深を要する外国船が容易に入港できることから、水深の浅い大阪港の外港として国際貿易港へと発展します。加えて、六甲山系の自然の恵み「灘の名水」は、「赤道を越えても味が変わらず腐りにくい水」として外国船から高い評価を受け、神戸港に寄港する船が増えていきます。
さて、琵琶湖の湖上物流に大活躍した帆走の平子船は、帆があることから、いつも風の方向と強さを読み、操船していました。湖北地域では、強い風、日和の日の軟風、日中のそよ風と風を3区分していました。琵琶湖全域で見ると、湖西や湖北の水夫に恐れられていた強い風は、湖西の堅田の南西からの日嵐(冬)とサキ(夏)、近江舞子の西からの西日嵐、塩津の北からの風、長浜の南東からのイバ(冬)と南(夏)です。
湖上物流で大活躍した平子船は、天気の急変や突発的な強風をなるべく避けるため、湖西や湖北では、夏は午前2時~3時、冬は午前4時~5時にかけて出港していました。この時間帯は、大気の温度が比較的に安定し、風も穏やかなため、安全な帆走ができたようです。この知恵は、現在でも架橋工事の現場で重視されています。気温が安定する、夜明け前、ミリメートル寸法で裁断し、組み立てられた鉄構造の橋は、鉄材の温度伸縮が一番小さい時間に架橋されます。
船の遭難リスクは、避けることができません。特に湖西や湖北の突風は、現在の気象予測手法をもってしても容易ではありません。強風によるJR湖西線の列車運休、琵琶湖におけるヨットやプレジャーボートなど遭難事故のニュースは、よく報道されている事例です。過去には、若人を失う大きな遭難事故がありました。ここに、ご冥福を祈るとともに、紹介します。
事故は、1941年(昭和16年)4月6日、旧第四高等学校(現金沢大学)の漕艇部員8名と京都帝国大学の学生3名の11名が遠漕訓練のため、当日の午前7時ごろ今津から漕ぎ出し、大津へ向かいました。ところが、高島市の萩の浜あたりで「比良おろし」の突風に吹かれ、転覆事故となり、11名全員が死亡しました。2カ月にわたり地元の漁師などの絶大な捜索協力があり、全員の遺体が発見されました。この水難事故を悼んで萩の浜の近くに四高の関係者と地元の方による「四高桜」の慰霊碑が建てられ、今も追悼が行われています(写真3)。この漕艇事故は、東海林太郎と小笠原美都子が歌った「琵琶湖哀歌」(作詞:奥野椰子夫、作曲:菊池博)で多くの人に知られるようになりました。

(2025年6月、筆者撮影)
筆者は、比良おろしという、局地風の冷たい突風だけでなく、湖面に生じる三角波が遭難を引き起こす、異常な波の現象を重く見ています。弓状の白砂青松の浜に立ち、沖から規則的に押し寄せる波は、浜辺に近づくと、波頭が立ち上がり、白くなった波頭の曲線は、浜辺の曲線と平行になり寄せてきます。このような規則正しい波と異なり、聞き慣れない三角波は、水面下を静かに泳ぐ、ジョーズの背びれが無数にある場面をイメージするとたやすく想像できます。三角波は、不規則な波です。強い風波、異なる方向に進む波の交差、湖岸の護岸などで反射した波がぶつかりあうと、三角波が起こります。この波に運悪く出会うと、船は三角波に持ち上げられ、帆走力や推進力が殺がれ、船は前進しにくくなります。また、三角波に持ち上げられた船は、水中部分が少なくなり、アルキメデスの原理が教えるように、浮力がぐんと小さくなり、重心が上、浮力が下と逆転し、転覆しやすくなります。さらに、浮き上がった船の舷側に横風が吹き続けると、船はいとも簡単に転覆や座礁をします。三角波は、世界の水夫がもっとも恐れる波です。
このような天候になりやすい時季は、春です。湖西では、古くより「比良八講荒じまい」と呼ばれ、強風や突風が吹き荒れるのでよく知られています。由来は、毎年3月26日ごろ、天台宗の比叡山延暦寺の僧侶や行者が行う法華経の法要で、琵琶湖の浄化や、湖上安全、五穀豊穣を祈願します。
比良おろしのすごさは、白鬚神社にある羽田岳水(はだ がくすい)の句碑「比良八荒 沖へ押し出す 雲厚し」で情景を知ることができます。この場合の「八荒」の八は、「やおろず」と同じように、よく吹くとか、多く吹くとか、という意味でしょう。
一見当たり前のように思える、湖上物流には、上に述べた湖西から湖北にかけての自然地形に起因する風リスクが隠れています。時代を経るにつれ、米や塩などおもな荷物を運ぶ需要が増えるなかで、湖上物流は、大きな役割を背負いますが、不確実な局地風が湖上物流を寸断・途絶させます。また、局地風が収まり、湖上物流が正常に動き出しても、大津へ丸子船が短時間に集中的に到着し、大混乱になり、大消費地の京都や大坂の経済社会活動に支障を来すことになります。これが琵琶湖疏水計画の早い実現へ向けての時代的背景となっていきます。
一極集中する大津の物流滞留リスク
琵琶湖北部の塩津、大浦、海津、今津、長浜などの港から積まれた荷物は、湖南の大津を目指して一路、速やかに運ばれます。蝦夷、出羽(秋田、山形)、越後(新潟)、越中(富山)、加賀、越前(福井)と連なる日本海沿いの地域から米や塩、材木などの重い荷物をたくさん遠方へ運ぶには、水運が有利な時代にあって、大消費地の京都や大坂により近い場所が選ばれます。京都や大坂へ運ぶ物が、どんどん増え、酒田から大坂まで数週間かかり、ハイリスク・ノーリターンのリスクがある西廻り航路(17世紀半ば)よりも、運ぶ日数は1~2週間と、ぐっと短縮でき、着実に運べるメリットのある、湖上物流は、リスク分散からも必要でした。
織田信長が、東海道や東山道の荒廃した宿場、街道、橋を整備し、里程を定め、船を造り、港を整えるなどして、交通インフラの普請を積極的に進めました。その結果、輸送の利便が向上しました。豊臣秀吉は、この社会インフラ整備の成果を引き継ぎ、たとえば大津百艘船に活かし、商業の自由化につなげました。商人の台頭です。やがて、港のにぎわいは堅田から大津へと移り変わります。この変化は、たとえば、京都への道の距離を比べますと、直ちに納得できます。当時の移動は、徒歩であり、荷物を運ぶには、馬や牛に頼りました。堅田から京都へは途中越の峠(「途中」は現在の大津市伊香立町にある地名。標高250m)を経て、大原街道を通り、三条大橋に至るルートで、道路距離は約25~30kmです。一方、大津から逢坂峠(標高約165m)や日ノ岡峠(京都市山科区)(標高約160m)を経て三条大橋まで道路距離は、約10~12kmです。大津から京都への道路距離は、堅田から京都への半分であることがわかります。また、大津から京都に至るルートでは、逢坂峠と日ノ岡峠の2つの峠を越えますが、途中越の峠に比べると、2つの峠の標高は、途中越に比べて、約90mも低い高さであり、移動の有利さは明らかです。
大津は、琵琶湖全体の港から運ばれる荷物が集結する、大きなターミナルであり、一極集中とも言えます(写真4)。なかでも米は、主要な取引荷物であるだけでなく、貨幣に相当する重要な荷物でもありました。このため、大津の湖岸には、幕府の御蔵、彦根藩の佐和蔵などの蔵屋敷が並んでいました。一方、倉をもたない小さな藩の場合、多くは米商人を蔵元としていました。米は、現在のように低温倉庫や冷温貯蔵庫がありませんから、日光が当たらない、風通しがよく、温度が安定する蔵や倉での保管になります。壁の厚い蔵(倉)は、大事な米の保管専用であったことから、いかに米が大切にされていたか、よくわかります。

(2025年8月、筆者撮影)
北陸方面から大津に運ばれてくる幕府や藩にとって大事な米や塩は、換金できる商品そのものです。米本位の時代であっても実情は、貨幣本位であり、米は貨幣に相当します。その重要な米は、大津や大坂・堂島の米相場で取引し、米を換金します。収入となった貨幣は、藩経営の原資となり、藩財政に運用されます。貨幣経済として見れば、米は藩だけでなく、大津にとっても大きなにぎわいの原動力でした。
加えて、米荷のほか、北からの塩蔵や干物などたくさんの海産物、日本海沿岸地の特産物(乾燥紅花や乾しワラビなど)が多くあったようです。これらは、上り荷と呼ばれ、原料や特別な物産でした。他方の下り荷は、京都や大坂からの呉服類、茶、醤油などでありました。上り荷と下り荷とは、荷物の種類がまったく異なっていました。
このように上り荷と下り荷が、集中する大津は、丸子船、馬借・車借の不足が深刻化し、2024年物流問題と同じように、物流渋滞が起こっても不思議ではありません。こうした物流実情を抱える大津には、荷さばきを効率的に速やかにする地域的急務が押し寄せていました。地元の商人や物流関係者の関係者内に、水運と陸運の両方からの課題解決に向けての気運が徐々に盛り上ってきます。この気運こそが琵琶湖疏水計画の夢となり、実現に結ぶ大きな背景となります。
東海道の物流渋滞リスク
江戸幕府が最重視した街道が、京都と江戸を結ぶ東海道です。その東海道の宿場・大津は、名神高速道路、国道1号、JR東海道本線、JR湖西線、京阪電車京津線が逢坂峠で地上に地下にと交錯して通る、現在でも往来の激しい大動脈の要にあります。
当時の交通の様子は、気になるところです。たとえば、逢坂峠の人と荷物の往来の盛んな様は、平安時代に活躍したとされる、盲目の琵琶の名手・蝉丸が詠んだ和歌「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」が伝えています。筆者は、蝉丸は盲目ゆえに音感や聴覚が特別に優れていたと思っています。耳を澄ませて逢坂峠を越える人の足音、牛や馬のひづめの音、荷車を引く(押す)ときのきしむ音、かごを担ぐかけ声など、正確に聞き分けていたと思われます。それゆえ上に掲載した和歌を詠んだのでしょう。彼にあやかりたいと思う人が多くいたことから、「音曲・芸道の守護神」として祀る、蝉丸神社が逢坂峠にあります(写真5)。

(2026年7月、筆者撮影)
逢坂峠は、東海道を往来できる唯一の道です。東海道は、京都から江戸へ下る、江戸から京都へ上る幹線街道です。しかも大津に集散する人やものが加わっていたことを考えると、もはや「にぎわい」を超えて相当に混雑していたと思われます。その動きは、人の徒歩、牛や馬の歩み、荷車の遅速であったことから、容易に交通の遅さや遅れ、渋滞が想像できます。馬借や車借の馬や牛も頑張りますが、斃死(過労死)することがあります。運ぶ力が殺がれ、過酷な事情が逢坂峠や日ノ岡峠にあったと想像しています。大津は坂の町です(写真6)。湖岸の大津から逢坂峠まで坂道が続きます。この坂道を登る牛や馬、人にとって重労働です。この光景は、図1の牛車に積まれた俵の多さにびっくりします。現在であれば、動物愛護の立場から見ると、この荷物の運ばせ方は虐待していること、となるでしょうが。当時は、パワーのある牛は重要で大事にされた動物でした。

赤色舗装部分は京阪京津線の併用軌道。
(2026年7月、筆者撮影)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション「東海道五拾三次 大津・走井茶店」
鈴鹿関、不破関と並び、畿内周辺の主要な関所として「三関」と呼ばれた逢坂関(写真7)には、かつて旧大津警察署逢坂検問所が国道1号脇にありました(写真8)。検問という関所の通行手形の確認手続きの名残でしょうか。筆者の記憶では、この検問所では、トラックなど自動車の積荷、運転手の運転資格などを調べていたようでした。ここのトラック1台が載る計量器の大きさに驚きました。また、道路舗装が不十分なときでしたから、道路の損傷防止の狙いもあったのでしょう。

(2026年7月、筆者撮影)

(2026年7月、筆者撮影)
さて、大津からの長い登り坂を越える過酷な荷物の運びですが、峠を越えた人や牛や馬にも一服が必要です。この坂のこう配の大変さは、京阪電車京津線「大谷駅」のホームで見ることができます(写真9)。逢坂峠で湧き出る名水「走井」(自噴井)は、人や牛や馬をいやしたようです。現在、走井は、大谷駅に近い月心寺内にあります(写真10)。ただし、拝観や精進料理の予約は、10名以上です。このため、筆者は、実物の走井を拝見できませんでしたが、かつて走井の名水を使い、大津追分の茶店で出していた名物「走井餅」の製法を引き継ぎ、販売している店の入口に置かれていたレプリカを見ることができました(写真11)。筆者は、国道1号を徒歩で京都方面に向かう道すがら、いくつかの谷清水の流れを見ました。おそらくこの地下水脈は、「走井」と同じ背後の音羽山(滋賀県と京都府の境の山で直下に東海道新幹線のトンネルが通る)から流れ出ている水のようです。音羽山は包蔵水量が豊かなのでしょう。

写真中央の壁面には大津絵のパネルがある。
また、ケーブルカーを除く普通の鉄道駅としては、全国一の急傾斜にホームがある。ベンチの左右の脚の高さを変え、座面を水平に調節にした工夫に注目。
(2026年7月、筆者撮影)

(2026年7月、筆者撮影)

水表面の盛りあがりに注目。
(2026年7月、筆者撮影)
逢坂峠を越えると、下り坂になり、いったん山科の旧東海道を通り、日ノ岡まで行きます。日ノ岡には、本連載(5)で紹介しました天智天皇の御陵があります(写真12)。御陵(近くにある京阪電車京津線の駅名は「みささぎ」と読む)の背後(北側)に琵琶湖疏水が流れています。天智天皇は、時計の考えを具体化したことから、時計業界では今も、大変に敬われています。それは、御陵の参道入口の隅にある「日時計」で知ることができます。日時計は、太陽が出ている6時から18時までの12時間の範囲ですが、現地で時刻を計ったところ、本当に正確でした(写真13)。素晴らしい日時計と改めて知りました。

(2026年7月、筆者撮影)

中央にある鉄棒が影を作り、その位置が時刻を示す。
(2026年7月、筆者撮影)
日ノ岡峠の旧東海道沿い(写真14)にも、一服のための水飲み場がありました。それが「亀の水不動尊」であり、今も有志の方により守られています(写真15)。場所は、京都に入る最後の難所・日ノ岡峠の途中で人も牛も馬も、この水で生き返ったと思います。
逢坂峠や日ノ岡峠の2大難所を越して京都や大坂へ多くの米や塩などの重い荷物を運ぶ苦労を支えたのは、やはり峠の命の水です。この水があってこそ東海道の物流が動いていたのです。しかし、東海道という大物流動脈も、人馬道や車道で運ぶ量に限界があり、やがて運ぶ時間ロスである渋滞を引き起こします。いや、その兆候が出始めていたことでしょう。物流渋滞リスクの避け、解消したいとの思いが、琵琶湖疏水計画の速やかな実現への社会的背景として盛り上がりつつあったのです。

(2026年7月、筆者撮影)

(2026年7月、筆者撮影)
車石による物流速達と需給情報との連動
牛車は、平安時代から貴人の乗り物として使われていました。おそらく荷物を運ぶときにも、牛車は使われたと思います。道は、意外にも人馬道(往還)と牛車道に分けられていたようです。たとえば、時代劇で急使が街道を乗馬で疾駆する映像を思い出してください。もうひとつの牛車道は、いわば物流のための道です。道の使い分けは、今日の歩車分離の考えです。この考えが、車石へ応用されます。その必要性は、逢坂峠や日ノ岡峠を越えて米や塩などの重い荷物を運ぶ重労働を少しでも軽くする妙案へとつながります。
さて、京都の竹田や鳥羽に車石(くるまいし)や車道(くるまみち)が古い絵図に描かれているようです。たとえば、竹田あたりの絵図では、人が通る道と、牛車が通る道は、分けられています(図2)。よく見ますと、牛車は、荷車を引きながら、川の中の細い砂利道を歩いています。砂利道は、牛が歩きやすい場所です。当時の車石は、いくつかの場所で部分的に車石が敷かれていたようですが、筆者は車道で牛車の通行が難しい泥状の軟弱な地面に板石を敷き、通りやすくするのに使われていたと見ています。

出典:「村上文庫」刈谷市中央図書館蔵
※刈谷市中央図書館承認済み(2026.09.02)
ですが、人や牛に峠越えは想像を絶する重労働です。しかも大津と京都の結ぶ東海道の区間の往来は、急ぐ牛車の大混雑であったようです。この苦境を救おうとした人物が出てきます。心学者・脇坂義堂です。彼は、大津から京都・三条大橋までの約12km(3里)にわたり、牛車用の「車石」を敷く発案をしただけでなく、工費の1万両を投じました。1805年(文化2年)のことでした。
車石には、近くの場所で産した石が使われます。基本は、加工しやすい花崗(かこう)岩です。大津では、木戸石や藤尾石(石英斑岩)、京都では、白川石が使われました。一部には使用済みの板石なども使われたようです。車石は、牛車が坂道を上り、下りやすいように溝が掘られます。その形は、凹の形です。よりイメージしやすく記述すれば、鉄道軌道のレールは、上部がT字型になっていますが、車石は下部にU字型になっています。この凹みに牛車や荷車の轍が入り、溝が2列に平行に並べられた車石の上を進みます。車石と車石の間は、砂利や砂、横に長い石を置き、牛が歩きやすいように工夫されています。逢坂山の難所は、絵図でも人馬道と、牛車が坂の車道を進む様子が描かれています(図3)。
牛だけで荷車を引くのは、重労働ですので、牛車の後ろから人(坂仲士)が押し、坂道を登り続けました。車石のおかげで、地道を進むよりも峠を越える抵抗が少なかったと思われます。当初の浅い溝が、年を経て深くなり、これが現在、旧東海道沿いの民家や寺、国道1号線の脇に見かける車石です(写真16)。

見開き左端に人馬道(点列で表示)と、
その右側に一段低い車道が並ぶ様子がわかる。
名古屋大学附属図書館所蔵
「名大システム 古典籍内容記述的データベース」収録https://da.adm.thers.ac.jp/item/n004-20230901-01445

「紀念 京津國道改良工事 昭和8年3月竣功」の碑と台座の車石
(2026年8月、筆者撮影)
ここで、人馬道と車石を敷いた車道とが再現された展示を見ましょう。京阪電車京津線「追分駅」近くに真宗大谷派の寺院「閑栖寺(かんせいじ)」がありますが、境内に当時の人馬道と、車石を並べた車道が再現されています(写真17)。案内によれば、車道(くるまみち)は、人馬道よりも15cm(約5寸)~30cm(約1尺)低く、完全に歩車分離されていたようです。車幅は、2.7m(約1間半)です。現在の道路づくりよりも進んでいます。傍らには「京都・大津の街道に敷設した車道と車石」との認定理由が表示された「土木学会関西支部認定土木遺産」(2020年)の銘板があります。

(2026年7月、筆者撮影)
通行は、午前が大津から京都へ、午後が京都から大津へと通行時間帯があり、京都に運ぶ荷物を優先していたと思われます。交通管制もしっかりしていました。車石を敷いた車道は、大津から始まり、三条橋が終点です。ここでも、牛車は、木橋を通らずに、鴨川の河原を渡っています(図4)。これは、当時の木橋の床板の破損防止の知恵で、交通ルールをきちんと守っています。
車石は、東海道の物流の速達に大きな役割を担いましたが、物流には、需要と供給の管理情報も大切です。情報伝達の遅い、早いがあっても、送り手から受け手に正確で信頼ある簡潔な内容が不可決です。保冷倉庫がない、当時の米は、時間の経過とともに、品質の劣化が始まります。良好な状態の米は、高い値段で取引されるのは、昔も今も変わらないことです。幕府や藩にとっては、大坂・堂島の米相場の情報や京都の米需要の動きは、利益(損益)にかかわる最重要な情報です。電話や電子メールなど想像できない時代では、飛脚による書状の依頼配達、関係業界の人へ預ける手紙や伝言などであったと思われます。諜報や早耳もあったかもしれません。
上述してきた東海道の物流や、需給情報の伝達などの事情をふまえた広域での社会・経済的背景を重ねると、琵琶湖疏水計画の気運が高まっていたと思われます。

(牛が牽く荷車は橋を通らず、鴨川を直接渡っている)
(奈良女子大学学術情報センター所蔵)
出典: 国書データベース、https://doi.org/10.20730/100258207
琵琶湖疏水計画に覚醒し始めた民間人
明治維新前後より海外の土木技術情報が、どっと日本に押し寄せてきます。こうした海外からの土木技術情報の絶え間ない流入により、国内ではつながりのある水路の利便が人々の間で覚醒してきます。いくつかの事例を振り返りましょう。
1872年(明治5年)5月、京都の吉本源之助ほか2名が、京都府庁へ「新川通船ノ義ニ付願」(工事見積書と収支見積書を添付)を出します。実際には、計画に明るかった、東京の菊井重左衛門が弟子筋の吉本に委託したようです。その義は、尾花川(大津市)より三井寺下まで水を引き入れ、船入場を設け、小関峠で約1170m(650間)の長い胎内堀(トンネル掘削)により通り抜ける案でありました。その後、藤尾川(大津市)を利用し、四宮(京都市山科区)に至り、掘割により御陵、安祥寺川、岡川を浚えるものでした。日岡峠と神明山では、約545m(300間)を胎内堀し、粟田川に至り、南禅寺門前で白川に合流する計画でした。この計画は、現在の琵琶湖疏水計画とほぼ同じ経路になっています。また、収支は、工事費を明確にしたうえで、工事に伴う費用負担や完成後の収入など数字で明示しています。おそらく経営感覚が鋭いか、実業家であった人物とみて取れます。この立案の内容には、水準測量の実施と、トンネル工事技術の準備とが十分でなかった、と見ています。
滋賀県と京都府で異なる疏水の捉え方
1873年(明治6年)、大津第一米商社の渡邊伊助ら7名は、滋賀県令(知事)・松田道之に大津と京都を結ぶ水路計画を提出しました。発起人の社名から米の正常な流通に不安を抱えていたようです。それゆえ、1日でも早い疏水の実現を望んでいた、と容易に推察できます。上述した1872年(明治5年)の疏水案と異なる経路を企てていました。これによれば、山科盆地を北東から南西へ斜めに横断するように、山科から六地蔵に水路を普請し、宇治川と高瀬川を利用して京都へ米を運ぶとしています。さらに大坂へ米などを運ぶことに加えて、外国までつながる点を強調しています。この水路計画は、京都側の日ノ岡峠を経由しないところがこれまでの琵琶湖疏水案と大きく異なります。
この疏水計画は、松田直之・滋賀県令が利便性を高めると知り、京都府に回すことを約束しました。しかしながら、疏水は、大部分が京都を通ることから、京都府は地元の田畑の喪失、洪水、濁水による影響などの諸点を懸念し、容認しなかったようです。滋賀県は再度、京都府に問題点を整理・要約し、対策などを提示するも、前回と異なるデメリットを列挙し、消極的な回答に終始しました。残念な結果でした。これが、後日、大きく変わる展開になります。
外国資本の参入への警戒
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカの間で結ばれた、日米和親条約により開国した日本は、一大転機を迎えます。また、1868年(明治元年)の明治天皇の京都から江戸(のち東京と改称)への行幸は、開国を真に知らしめることになります。衝撃をうけた京都は、あらゆる面で一気に活気を失うことになります。明治維新前後の京都の人口は、約35万人と推計されています。東京遷都が進む中で、多くの公家、商人、職人が東京へ移住し、約22万人と急激に減少します。京都はシーンと静まりかえっていた、と想像されます。ちなみに大坂は30万~40万人、江戸は100万~120万人と歴史的人口が推計されています。
開国は、対外機能を必要とします。港です。明治天皇は、京都盆地という狭い土地から抜け出て、外国から陸続と伝わってくる、新しい文明・文化を自分の眼で見たい、確かめてみたい、触れてみたい、という願望があったようです。これが、開明的な天皇と見られる所以かと思います。
湖国の人びとも、沈静化する京都を通り越して、近江茶の茶貿易でつながりのある、港のある大坂や神戸、遠く横浜に商機があると感じるようになります。それには、琵琶湖の水と大坂の水とをつなぐことが必要である、と考えるようになり、実現へ動き出します。これには、明治政府が打ち出した殖産興業に合致する事業に取り組みが重要であると理解していたようです。
まず、1874年(明治7年)8月18日付けで、吉住與治兵衛、堀猪三郎、木村忠治郎の連名で、京都までの水路通船のための開削を、松田道之・知事に訴願します。訴願には「水路財本出納見積方法書」が添えられ、資金運用や収支がきちんと書かれています。全体の経理は、大坂や横浜にも商館を営み、神戸に在留していたプロシャ人・キニツフルがかかわることになっていた。おそらく契約や経理の経験がある人物であったようです。吉住與治兵衛ら3名は、近江出身の社員を通じて、信頼できる彼に支援・協力を求めたようです。
さて、水路の経路は、現在の浜大津辺りに湖水取入口を造り、湖中に波止めを設けて荷物の積替えを容易にしています。水路は、三井寺下で左折し、約1364m(750間)の胎内堀(トンネル掘削)をして、藤尾村(京都市山科区北東)の麓に出て、安祥寺、神明山から南禅寺門前まで約1364m(750間)の胎内堀で至り、夷川で鴨川に合流する案でした。全長は、約9100m(5000間)です。少しずつ現在の琵琶湖疏水の経路に近くなってきます。
残念ながら、この計画案は、外国資本によることから、不安もあり、慎重さから却下されました。筆者は、契約という考えや解釈に不安を抱えていたと見ています。たとえば、契約社会が十分でなかった明治時代の初期、ウィリアム・シェイクスピアの喜劇、戯曲『ヴェニスの商人』に見る裁判での契約解釈が行われたとすれば、一抹の不安は、考えすぎかもしれませんが・・・。
却下されたものの、請願人は、神戸に行き、商人のパトンに面談し、計画案の説明をしますが、代理人・井上源七が金銭問題で裁判所にて取調中であり、また井上源七の友人・イリスも帰国中という事情が重なり、契約にいたらなかったようでした。
一方、吉住與治兵衛らは、大坂川口の居留地の和蘭五番商会のラッパルトと近江と取引があったことから、番頭の泉伊三郎を介して出資を求めたところ、同商会の横浜、長崎、神戸の代表者の同意が得られました。ラッパルトの名代で、泉伊三郎は、大津へ行きます。そして、1874年(明治7年)11月14日、再度、吉住與治兵衛、堀猪三郎、木村忠治郎の3名は、計画案を提出し、認可されます。しかしながら、泉伊三郎がヒアリングするも、外資導入は破談となったようです。
続く、1875年(明治8年)1月13日、中村與十郎と宇野仲次郎の連署で、京津間通船路開拓の計画を立案し、実施に先立つ測量願書を知事・松田道之に提出しました。この測量の所要日数は90日であり、外国人の測量技師による、とされていました。狙いは、正確な測量により、工事の金額と日数を正確に見積もるためでした。測量は、尾花川より小関を経て、南禅寺境内に至り、京都二条橋北で鴨川に合流する側線でした。実現性が高まることの確証が得られたので、即日に受け入れられました。上述した吉住與治兵衛らの先願人と示談のうえ、成立するならば、連署で提出するとよい、との条件付きでありました。2週間を要しましたが、1月27日付けで吉住與治兵衛、堀猪三郎、木村忠治郎、中村與十郎、宇野仲次郎の連署による水路測量が出願されました。しかし、外国資本の参入に不安が払拭できず、この案も立ち消えとなったようです。準備は整うも、外国資本の参入に賛意が及ばなかったようです。
寸言
現代社会では、道路網、鉄道網、海運網が、加えて情報通信網が、全国くまなく高密度に発達している日本です。こうした交通・情報の社会インフラのおかげで、物流網も完備され、たとえ離島であれ、予定された日時に大切な貨物や送付物が受取先に確実に届けられています。まさに当たり前すぎて空気のようですが、一朝一夕にできたものではなく、並々ならぬ土木、鉄道、造船、港湾、配送電・通信といった技術の進歩と、その実現に夢を見た技術者の信念が受け継がれてきた偉大な成果であるといえましょう。
2008年にノーベル経済学賞を授与されたポール・クルーグマンという人物がいます。彼が定義した「新経済地理学」の核心は、経済は現在の条件で決まるのでなく、過去の投資、産業集積、技術集積、人材形成、政策判断が、現在および将来の経済能力を規定する、つまり履歴効果が重要である、と説きました。
彼の視点を物流経済に当てはめると、すんなりと理解できます。毎日のニュースで報道されるように、彼が示した新経済地理学の指摘する成長・発展の主要因のいずれかをも欠くと、つまり将来への投資を怠ると、その企業は倒産・衰退しています。政府とても同じです。
琵琶湖疏水計画の気運の高まりは、ずっと続けられてきた先人たちの琵琶湖の未来にかけてきた夢が結実しようとした自然な流れです。新経済地理学に照らすと、琵琶湖への夢や思いは、無形の未来への投資といえます。一言でいえば、履歴効果。