山元 周吾(喜代七屋)

 ドイツ南部、バイエルン州に位置するアウクスブルクは、国際河川であるドナウ川に合流するレヒ川(Lech)とヴェルタハ川(Wertach)の間に発展してきた都市です。アウクスブルクは、ミュンヘンから北西へ約60kmの場所にあり、古代ローマ時代に起源を持つ長い歴史とともに、中世には商業都市、19世紀以降には南ドイツを代表する工業都市の一つとして発展してきました(図1)。

図1:ドイツ・アウクスブルクと本稿に関連する主要地域・都市(筆者作成)
本稿の対象地であるアウクスブルクを赤色で示し、繊維産業の技術移転や労働力移動、
比較対象として本文に登場するイングランド、スコットランド、オランダ、ニューラナーク、ロンドン、アムステルダム、ニュルンベルク、アルザス、スイス等の位置関係を示す。

 現在のアウクスブルクを歩くと、街の至るところを水路が流れていることに気づきます。2019年には、給水塔、噴水、水路、水力施設などからなる「アウクスブルクの水管理システム」がUNESCO世界文化遺産に登録されました。しかし、アウクスブルクにおける水利用の歴史は、飲料水供給や噴水だけではありません。水路は製粉をはじめとするさまざまな手工業を支え、19世紀になると近代工業の動力源としても大きな役割を果たしました。
 アウクスブルクの歴史的水管理について詳しく紹介しているのが、出版業者・文筆家で、歴史的水管理システムのUNESCO世界遺産登録に向けた構想や情報発信にも深く関わったマルティン・クルーガー(Martin Kluger)氏です。クルーガー氏は2015年に「Augsburgs historische Wasserwirtschaft. Der Weg zum UNESCO-Welterbe(アウクスブルクの歴史的水管理―UNESCO世界遺産への道)」を刊行し、中世以来の水路、水力利用、飲料水供給などの歴史を体系的に整理しています。同書は、2019年の世界遺産登録に先立って、アウクスブルクの歴史的水管理が持つ価値を総合的に紹介した著作でもあります。
 クルーガー氏が描いているのは、アウクスブルクの水利用が19世紀の工業化によって突然始まったものではないことです。レヒ川水系の水路は中世以来、製粉やさまざまな手工業を支え、その後も用途や技術を変えながら都市の経済活動を支えるインフラとして利用されてきました。
 今回訪れたのは、アウクスブルク市の旧市街東側に広がる旧繊維工業地区(Textilviertel)と、そこにある州立繊維・産業博物館(Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg:略称tim)です。timを見学した後、周辺の産業遺産を結ぶ繊維産業散策路(Textilpfad)を歩き、シェフラーバッハ水路(Schäfflerbach)やプロヴィアントバッハ水路(Proviantbach)、旧工場、水力施設、かつての労働者住宅などを見て回りました(写真1)。

写真1:旧アウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)の工場建築と煙突
(2026年7月筆者撮影)
「AUGSBURGER KAMMGARN SPINNEREI」の文字と煙突が残る旧工場建築で、
現在この一帯には州立繊維・産業博物館(tim)をはじめ、
旧工場を再利用した施設が立地している。

 州立繊維・産業博物館(tim)が利用している建物も、もともとはアウクスブルク梳毛(そもう)紡績会社(Augsburger Kammgarn-Spinnerei:AKS)の工場施設でした。カムガルン(Kammgarn)とは、羊毛のうち比較的長い繊維を梳(す)いて平行にそろえ、短い繊維を取り除いたうえで紡いだ「梳毛糸(そもういと)」を意味します。そのためAKSは綿紡績(めんぼうせき)工場ではなく、羊毛を原料とする梳毛紡績を中心とした企業でした。
 なぜアウクスブルクでは、これほど大規模な繊維産業が発展したのでしょうか。そして、同じように水力を利用して繊維工業を発展させたイギリス、とりわけスコットランドと比べると、どのような違いがあったのでしょうか。この問いは、以前こちらの随想でも紹介したスコットランドのニューラナークともつながっています。ニューラナークでは18世紀末、クライド川の水力を利用して大規模な綿紡績工場が建設され、その周囲に労働者住宅や学校などを備えた工場共同体が形成されました。前回の記事では、ロバート・オーウェンの活動とともに、水力利用がニューラナークの発展をどのように支えたのかを紹介しました。今回はニューラナークとの比較も意識しながら、アウクスブルクの繊維産業の歴史を中世まで遡り、水路、技術、資本、労働者、そして都市空間との関係から見ていきたいと思います。

1. 工場以前の「織物の町」アウクスブルク
 アウクスブルクの繊維産業は、19世紀の産業革命によって突然生まれたものではありません。その歴史は中世後期まで遡ります。中世後期のアウクスブルクで重要な商品となったのが、バルヘント(Barchent)です。バルヘントは、主として亜麻糸と綿糸を組み合わせた混織物でした。ここで重要なのは、アウクスブルクでは19世紀になって初めて綿が利用され始めたわけではないということです。周辺地域で得られる亜麻と、遠隔地から運び込まれた綿を組み合わせた織物生産が、すでに中世後期から行われていました。
 後にヨーロッパ有数の商業・金融家となるフッガー家(Fugger)も、その初期には織物業と深く関わっていました。アウクスブルクでは、織工だけでなく、原料を調達する商人、糸を紡ぐ人々、漂白や染色を担う職人、完成した織物を遠隔地へ販売する商人などが活動し、繊維を中心とする都市経済が形成されていきました。つまり、近代的な機械制工業が成立する何世紀も前から、繊維生産はこの都市の経済と社会を特徴づける重要な存在だったのです。州立繊維・産業博物館(tim)で特に興味深かったのが、17世紀初頭における織工の分布を示した展示です(写真2)。

写真2:17世紀初頭のアウクスブルクにおける織工の分布
(tim展示、2026年8月筆者撮影、博物館許可を得て掲載)
© Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg (tim)
1611年頃の織工の居住・就業分布を示した展示。
19世紀に旧繊維工業地区(Textilviertel)が形成される200年以上前から、
繊維産業が都市空間を強く特徴づけていたことが分かる。

 州立繊維・産業博物館(tim)の展示によると、1611年頃のアウクスブルクには約45,000人が暮らしており、そのうち約10,000人が課税対象でした。そして織工親方は2,114人に達し、手工業者全体の43%を占めていました。これは他の主要な手工業と比べても際立った規模です。例えば仕立屋は196人、金銀細工師は187人であり、織物業が当時の都市経済で非常に大きな比重を持っていたことが分かります。さらに興味深いのは、織工が市内に均等に暮らしていたわけではないことです。織工の多くは旧市街の周縁部や比較的所得の低い地区に集中し、裕福な地区ではごく少数にとどまっていました。つまり、繊維産業は単に多くの人々を雇用していただけではありません。職業と居住地が結びつくことで、都市内部に特徴的な社会空間をつくり出していたのです。19世紀に旧繊維工業地区が形成されるよりはるか以前から、繊維産業はアウクスブルクの都市社会を形づくる重要な要素でした。この時代の生産は、もちろん19世紀の巨大工場とは異なります。1800年頃までは家庭内生産が重要で、女性や子どもが糸を紡ぎ、織工は住宅や仕事場で布を織っていました。織工たちは同じ職業の職人たちが加入し、生産や営業のルールを定めた同業者組織であるツンフト(Zunft)に組織され、生産や取引の規則のもとで仕事をしていました。こうした長い繊維生産の歴史の上に、17世紀末になると新しい商品と技術が加わります。それが、インドを起点とする国際的な商品流通によってヨーロッパへ広がった綿布(Kattun)でした。

2. 綿布(Kattun)の流行と新しい捺染技術
 17世紀末から18世紀になると、アウクスブルクの繊維産業には新しい商品と加工技術が加わります。その一つが、綿布(めんぷ。Kattun)でした。ここでいうKattun(カトゥン)は、原料としての綿そのものではありません。ドイツ語で綿はバウムヴォレ(Baumwolle)と呼ばれますが、カトゥンは綿糸を用いて織られた布を指します。とりわけ17世紀末から18世紀には、鮮やかな色彩や模様を施した捺染綿布(なっせんめんぷ)がヨーロッパで人気を集めるようになりました。その大きなきっかけの一つとなったのが、インドからヨーロッパへもたらされた綿布です。鮮やかな色彩や模様を持つインド産綿布はヨーロッパでも人気を集め、それを模倣し、自ら製造しようとする動きが生まれました。とくにイングランドやオランダでは、新しい染色・捺染技術が比較的早く取り入れられました。アウクスブルクでは、新しい綿布捺染技術の導入で知られるゲオルク・ノイホーファー(Georg Neuhofer)が、1688~89年にオランダなどで技術を学び、兄イェレミアスらとともに1689年頃から、いわゆる英蘭式の綿布捺染技術を当地へ導入しました。その後、アウクスブルクは南ドイツを代表する綿布捺染の中心地へと発展していきます。

写真3:1750年頃の綿布捺染工房
(tim展示、2026年8月筆者撮影、パブリックドメイン)
1750年頃の綿布捺染(Kattundruck)の作業を示した展示。
職人が版に染料を付け、布に押し当てて模様を付ける様子が描かれている。
高度な分業がみられる一方、生産の中心はなお熟練した手作業だった。

 この図を見ると、18世紀の綿布生産がどのように行われていたのかがよく分かります(写真3)。職人は模様を彫った版に染料を付け、それを布へ押し当て、木槌で叩きながら模様を転写しています。その周囲では、染料を準備する人、布を扱う人、さらに色を加える女性など、複数の人々がそれぞれの作業を担当しています。すでに一定の分業による組織的な生産が行われていましたが、生産の中心を担ったのは依然として職人の手と経験でした。版を布の正確な位置に置き、色を重ねていくには熟練した技術が必要でした。この点で18世紀の綿布捺染工房は、近代的な機械制工場というより、手工業的な技術を基礎としながら、多数の労働者を組織して生産する段階にあったと見ることができます。
 一方、綿布捺染の発展は、アウクスブルクがすでに外部の商品や技術を積極的に取り入れる都市だったことも示しています。19世紀に英国などから新しい紡績・織布機械が導入される以前から、アウクスブルクには、外部から新しい技術を取り込み、それを既存の産業へ組み込む経験が蓄積されていたのです。ただし、18世紀のアウクスブルクが大きく発展させたのは、主として染色や捺染という加工工程でした。それに対して、同じ18世紀のイギリスでは、糸を紡ぎ、布を織るという生産工程そのものの機械化が進み始めます。

3. イギリスで先行した機械化
 18世紀のイギリスでは、繊維生産の工程そのものを変える技術革新が相次ぎました。その初期の重要な発明の一つが、1733年にジョン・ケイ(John Kay)が開発した飛び杼(とびひ)です。飛び杼は、織機で横糸を通すための杼(ひ)を高速で往復させる仕組みで、織布の速度と生産性を大きく向上させました。布を速く織れるようになると、それまで以上に大量の糸が必要になります。こうした需要を背景として、18世紀後半には紡績工程の機械化も進みました。なかでも重要なのがリチャード・アークライト(Richard Arkwright)です。アークライトは1769年に紡績機の特許を取得し、1771年にはクロムフォードの工場で水力によって機械を駆動しました。後に「ウォーター・フレーム」と呼ばれるこの仕組みは、水力と大型紡績機械を組み合わせた工場制生産の発展を促しました。以前紹介したスコットランドのニューラナークも、こうした技術革新の流れの中で成立した場所です。18世紀末からクライド川の水力を利用した大規模な綿紡績工場が形成され、大型水車の回転力が工場内の多数の紡績機械へ伝えられていました。
 さらに1785年、エドマンド・カートライト(Edmund Cartwright)が最初の力織機の特許を取得し、その後も改良を続けました。ただし、力織機が発明された時点で、ただちに機械制織布がイギリス全土へ普及したわけではありません。州立繊維・産業博物館(tim)の展示では、カートライト型の力織機はその後も改良を重ね、広く普及するようになるのは1830年頃からだったと説明されています。したがって、イギリスとアウクスブルクとの差を単純に「機械化が約半世紀遅れた」と表現するだけでは十分ではありません。重要なのは、イギリスでは18世紀後半から、紡績・織布機械の発達だけでなく、原料調達、資本、市場、機械製造、工場経営などの条件が結びつき、大規模な機械制工業が早い段階から展開したことです。本稿では綿花市場や交易ルートそのものの歴史には深入りしませんが、海外交易を通じて大量の原綿を確保できたことは、イギリスで綿工業が早く成長した背景の一つでした。これに対してアウクスブルクはヨーロッパ内陸部に位置し、さらに当時のドイツ地域は多数の領邦や関税圏に分かれていました。したがって両者の違いは、繊維産業が存在していたか否かではなく、既存の繊維産業を大量生産型の機械制工業へ転換する条件が、いつ、どのように整ったのかという違いだったと考える方が適切です。イギリスで発達した繊維機械は、その後大陸ヨーロッパへも広がりました。その技術移転を実物として示す展示が州立繊維・産業博物館(tim)にあります(写真4)。

写真4:ハワード&バロー社製(1877年)リング精紡機
(tim展示、2026年8月筆者撮影、博物館許可を得て掲載)
Ringspinnmaschine, Howard & Bullough, Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg (tim), Inv. Nr. 001033_L
イングランド北西部アクリントン(Accrington)のHoward & Bullough社が製造した
リング精紡機。アウクスブルク機械制綿紡績・織布会社(SWA)が
イギリスから輸入し、実際にアウクスブルクの工場で使用していた。

 この機械には、「HOWARD & BULLOUGH ACCRINGTON ENGLAND 1877」という文字が残されています。この機械自体は1877年製であり、アウクスブルクの機械制工業化が始まった1830年代を直接示すものではありません。しかし、19世紀後半になっても、イギリス製の高度な繊維機械がアウクスブルクへ輸入され、実際の工場で利用されていたことを示す具体的な痕跡です。では、アウクスブルクではなぜ1830年代になると本格的な機械制工業化が進み始めたのでしょうか。

4. 1830年代のアウクスブルクで整った工業化の条件
 アウクスブルクで本格的な機械制繊維工業が展開し始めるのは1830年代です。この時期を考えるうえで興味深い人物が、ヨハン・アントン・フリードリヒ・メルツ(Johann Anton Friedrich Merz)です。メルツは1833年、ニュルンベルクで馬力を利用した梳毛紡績事業を始めました。しかし1836年になると事業をアウクスブルクへ移し、シェフラーバッハ水路沿いで水力を利用した梳毛紡績を開始します。さらに1845年には株式会社化され、アウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)となりました。このニュルンベルクからアウクスブルクへの移転は、両都市の工業化を考えるうえで興味深い事例です。同じ南ドイツの有力都市であっても、利用できる動力、都市周辺の土地、交通条件、既存産業などは同じではありませんでした。メルツが馬力を用いていたニュルンベルクから、水路の動力を利用できるアウクスブルクへ事業を移したことは、19世紀前半の工業立地における水力の重要性を具体的に示しています。このニュルンベルクとの関係については、フランケン地方を取り上げる機会に改めて考えてみたいと思います。
 翌1837年には、アウクスブルク機械制綿紡績・織布会社(Mechanische Baumwoll-Spinnerei und Weberei Augsburg:SWA)が設立されました。こちらは綿を原料とする紡績と織布を中心とする企業です。この違いは重要で、19世紀のアウクスブルクは単純な「綿工業都市」ではありませんでした。近世以来の綿布捺染に加え、綿紡績・綿織布、さらに羊毛を原料とする梳毛紡績など、異なる繊維部門が並存する工業都市へ発展していきました。
 では、なぜ1830年代だったのでしょうか。州立繊維・産業博物館(tim)の展示では、メルツがアウクスブルクを選んだ条件として、水力、資本、労働力、工場用地が挙げられています。これらの条件が同時に整ったことが、機械制繊維工業の発展を支えました。そのうち、水力利用と繊維生産に関わる労働力には中世以来の蓄積があり、そこに19世紀の商業・銀行資本と大規模工場を展開できる土地が加わったと考えることができます。
 当然ながら、第一の条件として水力です。アウクスブルクには近代工業化以前から、水路と水車を利用する仕組みが形成されていました。メルツがニュルンベルクから移転したことが示すように、単に水が存在したのではなく、動力として利用できるよう管理された水路が存在したことに意味がありました。
 第二に資本です。大型工場には、建物だけでなく、多数の紡績機や織機、動力設備を導入するための多額の資金が必要でした。博物館では、フレーリヒ(Froelich)、シェッツラー(Schaezler)、シュミット(Schmid)などの銀行家による資本が、最新技術とともにアウクスブルクの工業化を支えたことが紹介されています。なかでもフェルディナント・ベネディクト・フォン・シェッツラー(Ferdinand Benedikt von Schaezler)はSWAの設立に関わり、後にはAKSにも出資しました。SWAが株式会社として設立されたことも重要です。多数の出資者から資金を集めることで、一個人では負担できない規模の工場投資が可能になりました。
 第三に労働力です。第1章で見たように、アウクスブルクには中世以来、繊維生産に関わる多くの人々が存在しました。さらに19世紀の工業化とともに、周辺地域やより遠方からも労働者が流入していきます。
 第四に工場用地です。多数の機械を収容する工場棟、動力施設、倉庫、管理施設には、旧来の手工業とは比較にならないほど広い土地が必要でした。そのため大型工場は、旧市街内部ではなく、水路を利用できる市街地外縁部へ広がっていきます。

写真5:1920年のアウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)の精紡工場内部
(tim展示、2026年8月筆者撮影、博物館許可を得て掲載)
Selfaktorsaal der Augsburger Kammgarnspinnerei, 1920, Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg (tim), Inv. Nr. F273-020-02
州立繊維・産業博物館(tim)に展示されている歴史写真。
1920年のアウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)のSelfaktorsaal。
同型の紡績機が長い列をつくって配置され、多数の機械と労働者が
一つの生産空間へ集められていたことが分かる。

 手工業から機械制工業への変化とは、単に「人の手が機械に置き換わった」ことではありません。それまで家庭や小規模な仕事場に分散していた生産が、大型工場へ集中しました。多数の機械、動力、労働者、資本を一か所へ集め、連続的に大量生産する新しい生産システムが成立したのです(写真5)。1830年代のアウクスブルクでは、長い繊維産業の経験、水力利用の基盤、商業・銀行資本、労働力、大規模工場を展開できる土地が結びつくことで、この新しい生産システムが本格化していきました。

5. 水路が支えた工業都市の形成
 1830年代以降に成立した大型の紡績・織布工場は、どこにでも建設されたわけではありません。シェフラーバッハやプロヴィアントバッハなど、既存の水路に沿って立地しました。クルーガー氏の著書に掲載された19世紀の図や地図を見ると、レヒ川系の水路沿いに紡績、織布、染色、漂白などの工場が集中していった様子が確認できます。中世以来の水路網は、19世紀になると近代工業の立地を支える産業インフラとして新しい役割を担うようになりました。ただし、近代工場が古い水車をそのまま使ったわけではありません。多数の紡績機や織機を同時に動かすため、より大きく安定した動力が求められました。そこで重要になったのが、従来の水車から水力タービンへの転換です。水車が水の流れを大きな車輪で受けて回転力を得るのに対し、水力タービンは水の流れや圧力を羽根車に効率よく作用させることで、より高い効率で安定した動力を得ることができます。この技術によって、同じ水路を利用しながら、より多くの機械を動かすことが可能になりました。中世以来の水路という古い都市インフラに、19世紀の新しい水力技術を組み合わせることで、アウクスブルクは既存の水環境を近代工業の動力基盤へと転換していきました。
 1840年にはSWAの第1工場で、プロヴィアントバッハの水を利用する2基のJonval式水力タービンが導入されました。AKSでもシェフラーバッハの水力が利用され、1842年にはPoncelet式水車が設置され、その後1845年には2基の水力タービンへ更新されました。つまりアウクスブルクの工業化では、中世以来の水路網と19世紀の新しい水力技術が結びついたことが重要でした。現在のプロヴィアントバッハ水路を見るだけでは、この水が巨大な繊維工場を動かしていたことを想像するのは容易ではありません。しかし、水路沿いには現在も水力利用施設や旧工場建築が残されています(写真6、写真7)。

写真6:現在のプロヴィアントバッハ水路(Proviantbach)(2026年8月筆者撮影)
現在では住宅地の中を流れる穏やかな水路だが、19世紀には
周囲に大規模な紡績・織布工場が立地し、その動力を支える重要な工業用水路だった。
写真7:プロヴィアントバッハ周辺に残る水力利用施設(2026年8月筆者撮影)
水路の流量や落差を調整し、水のエネルギーを工場動力として利用するための施設。
現在も水路とともに工業利用の痕跡を確認することができる。

 工場は既存の水路へ単純に接続しただけではありません。大型タービンに必要な水量と落差を確保するため、水路を広げ、流れを調整し、水門や導水施設を整備しました。つまり、近代工業化とは既存の水路を利用するだけでなく、都市水利システムを近代工業に適したインフラへ再編する過程でもあったのです。水力利用の拡大とともに、工場そのものも大型化しました(写真8)。

写真8:旧SWAのファブリークシュロス(Fabrikschloss)(2026年8月筆者撮影)
プロヴィアントバッハ水路沿いに残る旧SWAの大規模工場建築。
現在は工場としての役割を終え、複数の企業や商業・文化的な用途に
再利用されているが、その巨大な建築は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての
アウクスブルク繊維工業の規模を現在に伝えている。

 アウクスブルク機械制綿紡績・織布会社(SWA)はその後、複数の工場へ拡大しました。州立繊維・産業博物館(tim)の展示によれば、1920年には4つの工場を合わせて約14万錘、2,600台の織機、3,500人を超える従業員を抱えていました。
 同時期、アウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)もまた拡大していきました(写真9)。

写真9:1939年頃のアウクスブルク梳毛紡績会社(AKS)
(Kunstanstalt Eckert & Pflug, Leipzig, 1939, Lithografie, tim Inv.-Nr. 623、
2026年8月筆者撮影、博物館許可を得て掲載)
Augsburger Kammgarnspinnerei, Eckert & Pflug, 1939, Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg (tim), Inv. Nr. 000623
1939年のAKSを描いたリトグラフ。広大な敷地には低層の工場棟、ボイラー棟の煙突、管理施設、経営者住宅が配置され、遠景には工場労働者の住宅地区も描かれている。1909~10年に建設された「Kopfbau」が現在timとして利用されている。
工場棟、煙突、管理施設などが広大な敷地に展開しており、
一つの企業が大規模な工業空間を形成していたことが分かる。

 AKSは拡張を重ね、1900年頃には約50haに及ぶ大規模な工場地区を形成していました。州立繊維・産業博物館(tim)の展示によれば、同時期に約1,200人が働き、その半数以上を女性が占めていました。工場が大型化すると、その周囲の都市空間も変化しました。繊維産業散策路の案内によれば、19世紀にはバイエルンや現在のバーデン=ヴュルテンベルク地域から労働者が移住し、さらにアルザスやスイスから熟練労働者も集められました。1907年には、アウクスブルクの繊維労働者が11,213人に達していました。AKSでは1854年から労働者住宅の整備が始まり、1870年代には工場近隣に本格的な住宅団地が形成されました。その後も拡張が続き、1936年には44棟、355戸に達しました(写真10)。

写真10:梳毛紡績地区(Kammgarnquartier)を紹介する案内板
(2026年8月筆者撮影)
AKSの発展とともに工場周辺には労働者住宅が整備された。工場の成立が生産施設だけではなく、居住空間を含む新しい都市地区の形成につながったことを示している。

 SWA周辺のプロヴィアントバッハ地区(Proviantbachquartier)でも、1892年から約1,000人の労働者を想定した住宅地が整備されました。20棟の3階建て住宅が設けられ、店舗や洗濯施設なども用意されました。こうして、水路沿いに工場が立地し、その周囲に住宅や交通施設が形成されました。水路は単に機械を動かす動力源だったのではなく、19世紀のアウクスブルクにおける新しい工業都市空間の形成を方向づける基盤にもなったのです。
 この点で、ニューラナークとの違いが見えてきます。ニューラナークでは、水力を利用できる場所を起点として新しい工場共同体が形成されました。それに対してアウクスブルクでは、既存の都市と水路網の外縁に工場が拡大し、その後に住宅や交通施設が加わっていきました。

6. 水力から産業遺産へ
 アウクスブルクの工業化が進んだからといって、水力がすぐに蒸気力へ置き換えられたわけではありません。繊維産業散策路の「水力(Wasserkraft)」の案内では、蒸気機関が利用可能になった後も、アウクスブルクの繊維企業が比較的安価な水力を長く利用していたことが紹介されています。水車から水力タービンへ設備を更新することで、既存の水路を近代工業にも適応させていったのです。その後の変化を象徴するのが、SWAの第4工場として建設されたグラスパラスト(Glaspalast)です。1910年に操業を開始したこの工場は、繊維産業散策路の案内によれば、アウクスブルクの繊維工場で初めて水力を全面的に使用せず、蒸気機関を動力とした工場でした。したがって、アウクスブルクのエネルギー転換は、「水力から蒸気力へ」と一気に進んだのではなく、19世紀を通じて水力を高度利用しながら、そこへ蒸気力や電力などの新しいエネルギー源が加わっていったと見る方が適切です。
 一方、20世紀後半になると繊維産業そのものが大きく縮小していきました。州立繊維・産業博物館(tim)の展示によれば、バイエルン州全体の繊維産業従業者数は1957年に約12万人に達しましたが、1980年には67,600人、2000年には約2万人まで減少しました。アウクスブルクでも多くの繊維工場が操業を終えました。しかし、繊維産業が衰退しても、それが形成した都市空間は完全には失われませんでした。AKSの旧工場建築の一部は現在、今回訪問した博物館として利用されています。旧SWAのファブリークシュロスにも複数の企業や商業施設などが入り、旧工場建築は新しい用途を与えられながら使い続けられています。梳毛紡績地区やプロヴィアントバッハ地区には、かつての労働者住宅地区の歴史が残り、その間をシェフラーバッハやプロヴィアントバッハの水が現在も流れています。

写真11:現在の旧繊維工業地区(Textilviertel)を流れる水路(2026年8月筆者撮影)
かつて工場動力として利用された水路は、現在では住宅や商業施設、
旧工場建築などの間を流れる都市景観の一部となっている。
工場が操業を終えた後も、水路そのものは現在の都市空間に受け継がれている。。

 現在の景観から特に興味深いのは、水路、旧工場、水力利用施設、労働者住宅が互いに近接して残されていることです。これらを個別の産業遺産として見るのではなく、その位置関係に注目すると、かつての繊維工業都市の構造が見えてきます。19世紀には水路沿いに大型工場が立地し、工場の拡大に伴って多数の労働者が集まり、その周囲に住宅が建設されました。さらに原料や製品を運ぶ道路や鉄道も整備されました。つまり、水路は工場機械へエネルギーを供給しただけではなく、工場の立地を方向づけ、その周囲に生産・居住・交通の空間を形成する基盤でもあったのです。
 ここで、ニューラナークとの違いを改めて整理することができます。ニューラナークでは、クライド川の水力を利用できる場所を起点として、大規模な綿紡績工場と労働者住宅、学校などからなる新しい工場共同体が形成されました。一方、アウクスブルクでは、19世紀の機械制工場が登場する何世紀も前から都市が存在し、水路網も形成されていました。近代繊維工業は、その既存の都市水利システムを利用しながら旧市街外縁へ広がり、その周囲に労働者住宅や交通施設を伴う工業地区を形成しました。したがって、ニューラナークが「水力を起点として新たな工場共同体を形成した場所」であるとすれば、アウクスブルクは「長い歴史を持つ都市と水路網の上に近代工業を重ねていった都市」と捉えることができます。
 今回、州立繊維・産業博物館(tim)の展示と繊維産業散策路を続けて見て回ったことで、アウクスブルクの繊維産業史を、企業や機械だけの歴史ではなく、都市空間の変化として見ることができました。アウクスブルクが繊維工業都市へ成長した理由を、水だけに求めることはできません。中世以来の繊維生産の技能と経験、外部の商品や技術を取り込む商業ネットワーク、イギリスなどから導入された機械技術、銀行家や商人による資本、多くの労働者、工場用地、そして原料や製品を運ぶ交通網など、さまざまな条件が結びつくことで工業化は進みました。そのなかで水路網が持っていた重要性は、それ自体が工業化を生み出した唯一の要因だったことではありません。新しい技術や資本を受け入れる工場立地の基盤となり、その周囲に形成される都市空間を支えたことにあったと考えられます。
 中世のバルヘントをはじめとする織物生産、17世紀末以降の綿布捺染、19世紀の梳毛紡績・綿紡績の機械化、そして巨大工場と労働者住宅の形成。それぞれは異なる時代の出来事ですが、一つの都市の歴史として見ると、長い繊維産業の蓄積と水利用の歴史の上に、次の時代の技術や産業が重ねられてきたことが分かります。現在、シェフラーバッハやプロヴィアントバッハの水路は、住宅地や旧工場建築の間を静かに流れています。旧工場には博物館や企業、商業施設など新しい都市機能が加わりました。それでも、水路、工場、住宅の位置関係をたどれば、かつてこの場所がどのように形成されたのかを読み取ることができます。アウクスブルクに残る水路は、繊維工業都市を彩る単なる背景ではありません。中世以来の都市水利を近代工業へ接続し、工場と人々の生活空間の形成を支えた都市基盤です。現在もその水路をたどることで、長い繊維生産の伝統を持つ都市が近代的な繊維工業都市へ変化していった過程を読み取ることができるのです。
 そして、本稿で登場した都市の中でも、もう一つ気になるのがニュルンベルクです。ニュルンベルクの商人ヨハン・アントン・フリードリヒ・メルツは、1833年に同地で馬力による梳毛紡績を始めましたが、1836年には事業をアウクスブルクへ移し、シェフラーバッハ水路の水力を利用するようになりました(写真12)。ニュルンベルクにもペグニッツ川を利用した水車や水力利用の歴史がありましたが、メルツの梳毛紡績事業にとっては、豊富な水を人工水路へ導き、工業動力として利用してきたアウクスブルクの環境が、より有利な条件を備えていたと考えられます。
 この移転は、単なる一企業家の事業上の選択としてだけでなく、同じ南ドイツの都市でありながら、水をどのように利用できたのか、そしてその水環境がどのような産業の発展と結びついたのかという違いを考える手がかりにもなります。アウクスブルクでは中世以来の水路網が19世紀の大規模な繊維工業へと接続されました。一方、ニュルンベルクではペグニッツ川や井戸、地下水などと人々の暮らしが結びつく一方、中世以来の金属加工を基盤として、19世紀には機械工業などが発展していきました。
 なぜメルツはニュルンベルクで始めた梳毛紡績をアウクスブルクへ移したのでしょうか。そして、異なる水環境を持つ二つの都市では、自然資源、技術、資本、交通と産業がどのように結びついていったのでしょうか。もし機会があれば、今度は視点をフランケン地方へ移し、ニュルンベルクをはじめとする都市を歩きながら、水と工業化・暮らしとの関連性がアウクスブルクとどのように異なっていたのかを見ていきたいと思います。

写真12:アウクスブルクの繊維工業化を担った
ヨハン・アントン・フリードリヒ・メルツ
(tim展示、2026年8月筆者撮影、博物館許可を得て掲載)
Friedrich Anton Merz, Maler unbekannt, Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg (tim), Inv. Nr. 000665_L
ニュルンベルクで馬力による梳毛紡績を営んだ後、1836年にアウクスブルクへ移り、シェフラーバッハの水力を利用して事業を拡大した。
水力、資本、労働力、工場用地を結びつけた彼の活動は、19世紀アウクスブルクの
繊維工業化を考えるうえで重要な事例となる。肖像画は1900年頃制作の油彩画。

参考資料

  • Kluger, Martin(2015)Augsburgs historische Wasserwirtschaft. Der Weg zum UNESCO-Welterbe. Wasserbau und Wasserkraft, Trinkwasser und Brunnenkunst in Augsburg (um 1400–1921). context verlag Augsburg.
  • 州立繊維・産業博物館(Staatliches Textil- und Industriemuseum Augsburg:tim)常設展示および展示解説。写真2~5、9、12については同館の許可を得て掲載
  • 繊維産業散策路(Textilpfad Augsburg)「Wasserkraft」「Kammgarnquartier」「Proviantbachquartier」「Glaspalast」などの現地解説板
  • Stadtarchiv Augsburg:Johann Anton Friedrich Merz und die Errichtung der Augsburger Kammgarn-Spinnerei (AKS)
    https://www.augsburg.de/kultur/stadtarchiv-augsburg/digitale-praesentationen/das-historische-dokument/aeltere-historische-dokumente/johann-anton-friedrich-merz-und-die-errichtung-der-augsburger-kammgarn-spinnerei-aks(2026年8月31日閲覧)
  • Stadtlexikon Augsburg:Augsburger Kammgarn-Spinnerei 
    https://www.stadtlexikon-augsburg.de/stadtlexikon-augsburg/artikel/stadtlexikon/augsburger-kammgarn-spinnerei/3172?utm_source=chatgpt.com (2026年8月31日閲覧)
  • Stadtlexikon Augsburg:Schaezler 
    https://www.stadtlexikon-augsburg.de/stadtlexikon-augsburg/artikel/stadtlexikon/schaezler/5275?utm_source=chatgpt.com (2026年8月31日閲覧)
  • Stadtlexikon Augsburg:Textilviertel 
    https://www.stadtlexikon-augsburg.de/stadtlexikon-augsburg/artikel/stadtlexikon/textilviertel/5640?utm_source=chatgpt.com (2026年8月31日閲覧)
  • Stadtlexikon Augsburg:Wirtschaftsgeschichte vom Mittelalter bis zur Gegenwart https://www.stadtlexikon-augsburg.de/stadtlexikon-augsburg/aufsaetze-zur-stadtgeschichte/wirtschaftgeschichte-vom-mittelalter-bis-zur-gegenwart?utm_source=chatgpt.com
     (2026年8月31日閲覧)
  • Historisches Lexikon Bayerns, “Augsburger historische Wasserwirtschaft”.
  • bavarikon:Situationsplan der Arbeiterwohnkolonie der Augsburger Kammgarnspinnerei, 1884 https://www.bavarikon.de/object/bav:BWA-OBJ-00000BAV80002626 (2026年8月31日閲覧)


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