若井 郁次郎
京都か大坂か揺れる選択
明治時代は、18世紀後半にイギリスで始まった産業革命がヨーロッパ各国やアメリカに伝わる中で、発明された動力や機械、技術が数多く日本に移入された産業揺籃期でもありました。たとえば、蒸気機関や内燃機関、発電機、電信や電話、鉄道技術、治水技術などが挙げられます。文明だけでなく、鹿鳴館時代と呼ばれる時期、舞踏や洋装など日本の欧米文化の移入が盛んでした。この明治時代の動きを加速させたのは、お雇い外国人の活躍でした。
さて、明治維新後も大動脈・東海道は、人の往来や物流が活発でした。特に大津と京都を結ぶ街道には、険しい坂道が続く、逢坂峠と日ノ岡峠の2つの難所があります。この急坂な峠越えの苦労を少しでも和らげ、物流を速やかにしようと、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで2年にわたり改修工事が行われ、その碑が日ノ岡近くの道路脇に立っています(写真1)。改修工事は、約6km(1里19町51間)の区間の高低を均すものでした。最高地点では、3m強(1丈1尺)低くしたそうです。今日では、ショベルカー(油圧ショベル、ユンボの呼称)やブルドーザーなど建設重機で容易にできる作業ですが、当時は、ツルハシ、ショベルやスコップなどを使った作業であり、大変な重労働でした。

注:篆額(三條實美)、槇村正直(京都府知事)撰文
(2026年8月、筆者撮影)
湖上物流の中継都市・大津は、荷物や人の動きがますます活発になり、湖上や道路の交通混雑や物流滞留の解消が深刻な社会問題であったことから、大津から京都か、大坂か、どちらを水路で結ぶか、大きな決断が差し迫っていました。その決断には、琵琶湖疏水計画の実現の技術的可能性について信頼できる情報が必要になっていたようです。
その一方、琵琶湖疏水の実現により大津の衰退を心配する声が挙がってきます。たとえば、北国方面からの荷物は、大津を経由せず、疏水で直接、京都や大坂へ運ばれることになり、大津が受ける経済的利益の減少、また湖水の水位低下により水車や灌漑などへ大きな負の影響が懸念されていました。さらに、天領であった大津は、湖上物流による荷物の集散機能の集積に加えて、大坂に次ぐ米相場の立つ米会所の存続が危うくなる、といった不安がありました。これらの懸念が、大津は中継地から通過地になるとの恐れの気運に満ちていました。
大局的な見方もありました。それは、京都経済圏と大津との経済的なつながりが深く、中継機能をもつ大津は、商業的活動に活力がある、という考えでした。また、近畿経済圏における大津の地位は、京都との関係で成り立っていると捉える向きもありました。京都か、大坂か、重要な選択の岐路に、大津は直面していました。
1873年(明治6年)9月、大津第一米商社は、通船開削計画を立てます。この計画によれば、六地蔵(京都市伏見区)回りで運賃のコスト減により荷物輸送の増加ができ、京都へ影響は少なく、大坂へ荷物を運ぶ利便、さらに国内外と交易拡大が期待できる内容でした。大津の経済的に自由な活動の拡大を目指す点において大津商業界の利害一致があったようです。この計画を応援する、松田道之・県令(知事)は、1874年(明治7年)1月の『懸治所見』において県令と第一米商社の目的は同じである、と見解を示しています。この計画は京都府に回送されましたが、却下されました。その理由は、京都府としては、六地蔵経由の荷物輸送は、京都経済圏を飛び越して、大坂経済圏への荷物運送の利便を増すとの見方によるものでした。これを大津から見れば、政治都市・京都が沈滞するなかで、大坂経済圏との結びつきができる絶好の機会でありました。
京都は、北国の荷物の大集散地・大津を京都経済圏内に存続させ、京都復興の一助とし、それには大津と京都を直結する水路の早期実現の熱意があったゆえに、大津から六地蔵経由の水路計画を却下する必要があったようです。水路開削の目的は同じであったが、真の目標が異なっていたようです。ただ、大津は積極的に水路計画を押し進めることはなく、次の時代の主力となる鉄道計画による新たな活路を考えていたようです。
琵琶湖疏水計画を推すまでの京都の動き
欧米の潮流にさらされる京都でも、文明・文化の動きを受け止め、吸収する改革・革新する積極的な政策が展開されます。根幹的な政策として、教育制度の充実と平行して、有為な人材が活躍できる産業振興も着実に行われました。この教育制度の充実や産業振興には、大きくかかわったのは、山本覚馬(会津藩士。京都府会初代議長。写真2は邸宅跡にある石碑)や明石博隆(あかし ひろあきら)の協力が大きかったようです。

(京都市中京区・烏丸御池駅近く)
注:「八重」は覚馬の妹。のちに同志社を創立する新島襄の妻となる。
(2026年8月、筆者撮影)
のちに京都府知事となる槇村正直が中心となって京都府再建の方策「京都府施政ノ大綱ニ関スル建言書」を示し、1870年(明治3年)、政府に上申しました(上申当時は京都府参事)。これに示された京都復興の大綱は、京都の当時の実情と将来像をふまえ、次の5項目に簡潔にまとめられました。
- 京都市中ヲ挙テ職業街トシ、追年、諸器械ヲ布列シ専ラ物産ヲ興隆ス可キ事
- 尽ク無用ノ地ヲ開テ地産ヲ盛ニス可シ
- 水理ヲ通シ道路ヲ開キ運輸ニ便ニシテ、以ッテ商法ヲ引大ニス可シ
- 職業教授ヲ開キ遊民ヲ駈テ、職業ニ基カシムル事
- 広ク海外ノ形勢ヲ示シテ人智ヲ発明スル事
これらの京都復興の5方策を筆者なりに解釈すると、次のようになります。
大意は順番に、
- 産業都市・京都にふさわしい近代機器の導入による生産力の向上
- 人口流出による空き地の有効利活用による産業振興
- 水路や道路の開発・整備による商業活性化
- 職業教育による雇用拡充・拡大
- 海外の科学・技術の吸収による人材開発
となります。現在でも通じる達観した大綱です。これら5方策は、後述するように、京都の活性化のため徐々に実行されていきます。
長州藩士であった槇村正直は、1877年(明治10年)、44歳で京都府第2代知事になると、「京都府施政ノ大綱ニ関スル建言書」を速やかに実施していきます。強引とも受け取られる面もあったようですが、彼の迅速な思考と行動の背景には、欧米の科学・技術の進歩の速さを、槇村正直と同じ長州藩士で中心的人物であった、桂小五郎(維新後、木戸孝允(きど たかよし)と改名。写真3)が、岩倉具視を首班とする、いわゆる岩倉(欧米)使節団の副使として1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて参加した、欧米での見聞内容を直接、槇村正直に語り、伝えたと思われます。桂小五郎の欧米見聞の語りから、欧米の文明・文化に1日でも速く追いつけとの精神をもって、京都は、国内の旗手として殖産興業の近代化に取り組みを企画し、推進した、と筆者は捉えています。

(現在は京都ホテルオークラのある場所に長州藩の邸宅があった)
(2026年8月、筆者撮影)
槇村正直は、殖産興業の前提として教育制度の充実を図り、人材育成が重要であると考えていたことから、1869年(明治2年)、日本最初の小学校(上京第27番組柳池校、現京都市立御池中学校)開設の中心的人物でした。引き続き中学校を始め、女子教育のための女紅場(写真4)、京都市内における大学の開校・開学にも積極的に進めました。また、医学方面でも西欧医学の導入に積極的でした。京都粟田口青蓮院内で開いた仮療病院に始まり、蘭学医であり、薬学の知識をもつ明石博高らが募金活動を行い、1872年(明治5年)、現在地に移転した療病院は、現在の京都府立医科大学となります(写真5)。槇村正直・知事の下で京都府職員として活躍したとき、明石博高は、医者としての衛生知識を生かし、殖産興業の一貫として牧畜場を開き、食の西洋化・栄養摂取の普及に必要な畜産振興に努めました(写真6)。その石碑が、京都大学東南アジア地域研究研究所の北西端に立っています。
槇村正直や明石博高は、以上の他にも多方面にわたり幅広く、大胆に京都の改革・革新を強く推進しました。今日の京都のおもな施設・施策の始まりの多くは、槇村正直や明石博高が関わっています。ふたりが活躍・奔走した政策成果は、今も京都に引き継がれています。

注:現在は御所の東にある京都府立鴨沂高等学校の前身にあたる学校とされる。
(2026年8月、筆者撮影)

注:1880年(明治13年)12月に槇村正直が撰文したとある。
(2026年8月、筆者撮影)

(京都行幸地に立つ石碑は、市内に散在する)
牧畜場は、現在の京都大学医学部附属病院西あたりにあった。
注:この右隣には「牧畜場記念碑」がある。
そちらは槇村正直の命を受け、
当時京都府の役人であった明石博高(あかし ひろあきら)が
撰文をしたとある。
(2026年8月、筆者撮影)
京都舎密局が果たした理化学の基礎と応用
舎密は、オランダ語のchemieの音訳であるのはよく知られ、理化学を学ぶところは、舎密局と呼ばれました。一般に、京都舎密局と大坂舎密局とが混同されていますので、まず先行していた大坂舎密局から始めます。
大坂舎密局は、理化学を教育する公立の学校として、1869年(明治2年)5月、現在の大阪府庁近くに開所されました(写真7)。教頭を務めたオランダ人のクーンラート・ヴォルテル・ハラタマは、理化学を教えます(写真8)。ここの聴講生であった高峰譲吉は、タカジアスターゼの発見者として今も多くの人に知られています。また、助手であった村橋次郎は、味の素を発見した池田菊苗を個人指導していました。

注:現在の大阪市中央区、大手前合同庁舎の前にある。
(2026年8月、筆者撮影)

クーンラート・ヴォルテル・ハラタマ(オランダ人)の胸像と顕彰碑
(2026年8月、筆者撮影)
大坂舎密局の立地点を考えるとき、現在の大阪市中央区内にある、薬種商が集まる道修町(どしょうまち)と、蘭学と医学を教育する適塾(緒方洪庵の号・適適斎に因む適適塾が正式名)とが重要になります(写真9)。

現在は大阪大学の「適塾記念センター」になっている。
(2026年8月、筆者撮影)
道修町は、江戸時代には全国や東南アジアから薬種や薬を集散し、薬の流通で活況を示していました。現在も製薬会社が建ち並び、医薬産業のメッカです。薬の町・道修町の一角に、日本の医薬の祖神・少彦名命と、中国の医薬の祖神・炎帝神農とを祀る少彦名神社があります(写真10)。ここは、「神農(しんのう)さん」の呼び名で親しまれ、老若男女や医薬関係者が、病気平癒や健康成就、商売繁盛を願う人びとが参拝に訪れています。お守りの「張り子の虎」はよく知られています。

(2026年8月、筆者撮影)
もうひとつは、蘭学塾の適塾です。適塾1838年(天保6年)、緒方洪庵が大坂で開き、オランダ語を通じて、西洋の医学・薬学や、自然科学・兵学を学ぶ場でした。適塾は、当初、津村東之町(大阪市中央区)にありましたが、1845年(弘化2年)に過書町(大阪市中央区)に移転しました。写真9に示した「適塾」はその移転後の建物となります。適塾は緒方洪庵の没後、1868年(明治元年)に閉塾になりますが、25年間に3000人を超える入門生が学びました。幕末から明治にかけて、大村益次郎、福沢諭吉(大坂慶応義塾設立)、大鳥圭介(北垣国道に田辺朔郎を紹介)、橋本左内、高峰譲吉(上述)などの入門生が学んでいます。適塾の閉塾後は、大坂府知事の後藤象二郎らが尽力し、浪華仮病院、仮医学校が開かれました。適塾の精神は、現在の大阪大学医学部や大阪医科薬科大学に引き継がれています。
上述しました大坂舎密局(理化学の啓発)と道修町(薬効・薬学)と適塾(医学)の強力な三角形について、筆者は次のように理解しています。大坂舎密局は、理化学の教育機関です。道修町は、薬の町ですから、各種の薬の薬効に常に関心をもつ関係者が多数いました。しかし、薬効や成分を学ぶ場がありませんでした。明治になり、薬の学習需要が旺盛であった、道修町近くに大坂舎密局が作られ、当時のオランダの薬学知識を得る機会が生まれ、適塾での薬効(エビデンス)が確信できた、と思われます。しかし、大坂舎密局の廃止、適塾の閉塾があり、三者のつながりは途切れます。
教育機関の大坂舎密局は、約3年で廃止になり、その後、理学所、開成所と改称され、大阪中学校、大学分校、第三高等中学校と引き継がれました。1889年(明治22年)、第三高等中学校は、京都の強い誘致の働きかけがあり、京都へ移転します。その後、1894年(明治27年)に第三高等学校と改称され、第三高等学校を基礎として1897年(明治30年)、京都帝国大学が創設されました。1949年(昭和24年)に京都帝国大学と第三高等学校が統合され、新制京都大学になり、現在に至っています。
大坂舎密局を辞した明石博高が京都府に提示し、造られた舎密局がありました。それが京都舎密局です。京都舎密局は、大坂舎密局の設立より1年遅れの1870年(明治3年)に設立され、1881年(明治14年)まで続きます(写真11)。ここでは研究と技術応用に狙いがありました。まさに上述した「京都府施政ノ大綱ニ関スル建言書」の第1項の流れそのものです。ここに招かれたのは、ドイツ人のゴッドフリード・ワグネルです(写真12)。彼は、1868年(慶応4年)、お雇い外国人として、長崎に石けんを造る会社の指導のために来日しましたが、事業は頓挫します。その後、化学の知識を生かして有田焼の改良を行い、東京帝国大学のドイツ語講師になり、ウィーン万国博覧会の出展をも指導しました。1878年(明治11年)、京都舎密局に雇用され、有田焼の改良経験を生かし、七宝焼の指導、清水焼や粟田焼などの陶磁器づくり、ホウロウ(琺瑯。金属表面にガラス質の粉末を付け、高温で焼く。)、ガラス(玻璃)、石けん、鉄砲水(ラムネ)やビールの飲料などの製造、染色改善などに多くの技術指導にかかわっていました。ここでの理化学の知識の蓄積は、後世の衛生試験所、工業試験所に受け継がれて行きます。しかし、彼の理化学の知識を教育や人材育成にもっと生かし、受け継いでいこうとの意向を受け、ワグネルは、京都舎密局で理化学の講義をすることになりました。ワグネルの講義は、1878年(明治11年)2月~1881年(明治14年)の閉鎖までの3年間でしたが、京都の産業振興に直接・間接に大きな足跡を残しました。

1979年に閉校した京都市立銅駝中学校(京都市中京区)の敷地内にある。
その後、2023年まではこの場所に「京都市立銅駝美術工芸高等学校」があった。
(2026年8月、筆者撮影)

(2026年8月、筆者撮影)
仏具器具を製作していた、初代・島津源蔵(2代目・島津源蔵は子息)は、彼の金属加工の技術を見込まれ、京都舎密局の初代局長の明石博高から輸入していた理化学機器の製作や修理を依頼されます。二条通を越えて北へ徒歩で約5分と至近距離に製作所があったことから、頻繁に京都舎密局に出入りしていた、と思われます。理化学機器の修理だけでなく、京都舎密局でワグネルによる欧米の理科学の講義を受け、知識や技術を吸収します。そこで「科学・技術の時代の流れ」を感じたようです。彼は、京都や日本は科学技術を軸に将来に向けて発展・成長すると確信し、ビジョンを描いていたようです。その後も理化学機器・分析機器の製造に専門深化を進めました。それが、1875年(明治8年)3月創業の島津製作所の始まりです。今や、世界有数の理化学・医学分野などの分析機器を製作する京都発の企業です。その島津製作所の技術者・田中耕一が2002年、ノーベル化学賞を授与されたのは、多くの人に知られています。
京都には、島津製作所のように専門分野の技術の精緻化、高度化へと深化し、世界レベルの技術開発や製品開発で国内外の産業界や一般社会に寄与していく企業を生み出す企業風土が続いている、と筆者は見ています。このような企業風土の萌芽を推し進めてきたのは、これまで紹介した槇村正直や明石博高の強力な連携であり、欧米で目を見張る科学・技術の発展・進歩を二人に伝え、教えた木戸孝允の存在が大きかったといえます。
残念なことは、槇村正直の東京への転進により、明石博高は活躍の機会を失い、二人が築いてきた科学・技術の萌芽的中心は、減速します。しかし、企業風土は、廃れることなく受け継がれていきます。その現実は、今日の京都の特色ある科学・技術にしっかり根ざした産業群の姿です。受け継がれ、脈々と続く京都の科学・技術の広がりは、これまでにない理化学の研究や実験、実用化に必要な新素材や動力の需要が起こり、琵琶湖疏水計画を推す社会気運を高める遠因になります。
オランダからのお雇い外国人の活躍
幕末から明治にかけて、日本政府に雇用された外国の技術者らは、お雇い外国人と呼ばれていました。かれらは、政府の意向を受け、科学・技術の知識啓発、技術指導を進め、日本の百年の大計に大きく貢献することになります。
明治政府は、欧米使節団の見聞を真摯に受け止め、科学・技術の積極的導入により果敢に近代化、西欧化を推進します。そこには「追いつけ、追い越せ」「遅れるな」といった気概がありました。それには、先人や先進国から直接に学ぶのが得策であると、時の政府は判断したのでしょう。動きは素早く、お雇い外国人を多数受け入れ、科学や技術のソフトやハードの知識から実践まで幅広く国内に浸透させていきます。しかも彼らの給与は、おおむね月額100円~600円と幅はありますが、かなりの高給でした。科学・技術以外のお雇い外国人を含めると、とてつもない給与額になります。明治政府は、潤沢に資金があったようです。当時の為替は、1円が1ドルで、しかも金本位制であっことから、紙幣が換金され、相当の金や銀が海外に流出したと想像されます。見方を変えれば、金や銀といった金属よりも、優れた人材は国力になり、海外へ流れ出た経済的損失は、将来必ずや教育により日本に貫流すると達観していた、と推定しています。
日本人にとって学びに時間を要しましたが、農産物の輸出に始まり、軽工業の普及、重工業の成長・発展へと産業構造の変遷だけでなく、加工貿易立国の地位を立てて来た経緯を知ると、投資効果は、時代の経過とともに大きく現れた、と筆者は見ています。
さて、社会インフラ関連のお雇い外国人の分野別の人数は、明治の中頃になると、表1に示すとおり、256人に達しました。お雇い外国人の出身国は、欧米各国の当時の実情の見聞をふまえています。たとえば、開拓は多様な気候風土での農業が盛んなアメリカ、鉄道先進地で海運が盛んなイギリス、工作(意匠・造形)に優れたフランス、大学教員にはイギリス、土木(河川・港湾)で経験豊かなオランダからお雇い外国人を招いています。

ここでは、琵琶湖疏水計画の実行可能性について意見を述べた、オランダから日本に招かれた2人の技術者を紹介します。1人は、内務省土木寮に長工師(職工長、監督)として雇われ、福島県の安積(あさか)疏水計画の実施計画書の作成を指示した、コルネリス・ファン・ドールン(以下、ファン・ドールン)です(写真13)。もう1人は、同じ土木寮で多くの治水や砂防工事に貢献した、技師のヨハネス・デ・レーケ(以下、デ・レーケ)です(写真14)。
まず、ファン・ドールンは、宮城県の鳴瀬(なるせ)川河口に野蒜(のびる)港を築港する工事責任者でした。東京への帰路、郡山に立ち寄り、安積疏水開削(かいさく)事業の準備調査が進められていた猪苗代湖を訪れ、国営安積開墾事業・安積疏水開削事業の実施の一環として湖水の水位を測定しています。猪苗代湖から自然に流れ出ている日橋川(にっぱしがわ)は、途中で只見川と合流し、阿賀野川となり、日本海へ注ぎます。そこで、日橋川の流出点に堰を設け、流出水の一部を止め、猪苗代湖の水位を上げ、上昇した水位の湖水を安積原野へ流し、大規模な原野を潤して開墾しようとしたのが、安積開墾事業であり、安積疏水開削事業でした。その役目を担ったのが、日橋川の流出地点に造られた、十六橋(じゅうろっきょう)水門です。初代の水門は、1880年(明治13年)で、16径間石造アーチ橋でした。1924年(大正3年)、水力発電所の建設にあたり、水位調節のため電動式ストーニーゲート(引き上げ式ゲート)に改築され、同時に水門と道路が分離されたのが、現在の十六橋水門です。
国営安積開墾事業・安積疏水開削事業は、琵琶湖疏水計画の先行事例であり、事業の概要は、次の連載(9)で紹介します。

(出典:農林水産省農村局整備部設計課Webサイト掲載画像。使用許可済)
次に述べますお雇い外国人は、デ・レーケです。治水や治山や砂防について調査や業績を調べている研究者のほか、河川の治水や砂防に関心ある人によく知られている人物です。
彼は、青年期に故国オランダで取り組んだ、河口のライン川と、北海からの風波とがぶつかり、砂が溜まる砂州における築堤現場の経験を非常に大切にしていました。日本の河川や河口を見た彼は、オランダと日本の現場で共通する「砂」に着目し、治山・治水を軸に河川を観察し、しかも現地踏査主義を徹底しました。健脚のデ・レーケは、流域をくまなく調べ、歩いて、眼で見て、現場に立って考える、という姿勢を貫きました。この技術者魂は、今日の土木技術者、いやすべての分野の技術者にとって大きな教訓であると、筆者はつねづね思っています。

(2026年8月、筆者撮影)
デ・レーケの現地踏査主義の理解を深めるのに、生い立ちを簡単に紹介します。オランダ南西部の北ベーフェラント島で生まれた彼の父は、堤防を造る築堤職人でした。そのため幼い頃より築堤の作業を行う父の仕事を見ていたようです。デ・レーケ5歳のとき、一家は、南ベーフェラント島に引っ越ししました。そして、彼は、家業の築堤工事を手助けして青年期を過ごします。そのとき、デ・レーケは、工事現場でオランダ内務省技官のJ・リブレット(のち王立アカデミーの水理学教授)に出会い、築堤技術に必要な数学、力学、水理学を学びます。23歳で独立した彼は、アムステルダム運河会社が工事を受けた、アムステルダムと北海を結ぶ運河に設置する、オランニエ閘門の現場主任として勤め、閘門設置工事を完成させました。ここで、前述したファン・ドールンと知り合い、彼の勧めで日本へやってきます。
デ・レーケは、日本で早速取り組んだのは、1873年(明治6年)10月よりファン・ドールンより引き継いだ大坂港改修工事です。当時の淀川は、利水を目的とした低水工事計画でした。これは、河川流路を整え、水深を増し、舟運や用水取入を便利にする工事です。具体的には、大坂から京都まで小型蒸気船が航行できる河川工事です。低水工事が行われれば、京都と大坂を結ぶ物流ルートとして大事な川の道になります。
調査を始めると、淀川河口に溜まる土砂の量や、上流より流れてくる土砂の多さを見て、必ずや川の上流に土砂崩壊の地があると推察します。この砂の溜りと流れの姿は、オランダでの築堤現場と同じであると、直感します。そこで、11月に宇治川から琵琶湖にかけて現地視察・調査をします。滋賀県草津市の上流で、土砂流出の激しい田上山(たなかみやま)にも調査に出かけます。翌1874年(明治7年)11月には、土砂が多い木津川をさかのぼり、支流の不動川(木津川市)では、山から流れ出る土砂を観察したようです。他の流域にも足を運び、土砂流出の視察や調査を繰り返しました。田上山も不動川流域も、かつて美林であったことから、奈良の宮殿や寺院や神社の建築用材を切り出し、乱伐されたため、はげ山になった山地でしたが、現在は、緑の回復のため、植林事業が進められています。
デ・レーケの緻密な現地調査をふまえ、彼が設計した大坂港改修工事は、1897年(明治30年)に築港工事が始まり、国内外との交易の拡大に伴う大型船の入出港ができる、近代港湾へと姿を整えていきます。その要点は、まず土砂の供給源である流域上流からの流砂を減らし、大坂港での浚渫量を少なくし、流路と水深の安定化させる計画をデ・レーケが立案したところにあります。
ここで、デ・レーケによる堰堤の実例を紹介します。不動川は、京都府木津川市のおおむね東の山から西へ流れ出て、木津川に流入する中小河川です。この上流に不動川砂防歴史公園があります。公園の一角に、デ・レーケの胸像があり、少し離れた渓流に不動川砂防堰堤(通称デ・レーケ堰堤)があります(写真15)。デ・レーケ堰堤を正面から見ると、石が菱形にして積まれています。おそらく石積みが一気に崩れない積み方と、筆者は見ています。不動川砂防歴史公園には、こうしたデ・レーケの指導による堰堤や砂防ダムが散在しています。
堰堤の一部を見ますと、隙間が見られます(写真16)。これは、一定の粒径の砂を閉じ込め、隙間から水を流し出し、堰堤に過度な力を与えない工夫で、スリットの機能があります。

(2026年8月、筆者撮影)

(2026年8月、筆者撮影)
不動川は流砂の多い川であり、下流では、不動川の河床が上、下は鉄道や道路のトンネルが抜ける、天井川です。写真17は、棚倉駅近くの北にある天井川の場所です。木津川右岸には大小の天井川が複数あり、天井川と交差する奈良線は、現在でも一部単線区間があり、天井川のトンネルを抜ける、小さな鉄道旅を楽しむことができます。

注:画面中央、トンネル内に電車のライトが見えている。
(2026年8月、筆者撮影)
デ・レーケは、その後も国内の治水工事の計画にかかわります。たとえば、木曽川、長良川、揖斐川の三川の分流工事があります。この大治水事業では、三川において実に多くのケレップ水制が築造されています。ケレップ水制とは、オランダ式の河川技術であり、川岸から川の中に突き出し、水勢を弱め、流れを川の中央へ導く構造物です。これにより川の水深が確保でき、舟運ができるようになります。明治期に導入されたケレップ水制は、粗朶(そだ)と土と石を材料にしていました。淀川でもケレップ水制が設けられ、現在では、ワンドができ、河川生態系の保全に役立っています。
デ・レーケが、日本の河川の自然度とオランダ築堤工事の経験を熟慮して計画・設計してきた低水工事に代わり、やがて高水工事推進派が河川工事の中心的役割を担うようになります。高水工事は、洪水を速く海へ放流する考えです。それには、河川の両岸に丈夫で高い堤防を連続的に築き、流れやすくすることです。このため、堤防で守られる堤内地の土地は、農地や宅地として利用ができるようになります。今日の日本の河川両岸周辺に見られる堤内地の土地利用の光景です。自由度を失った日本の河川は、丈夫なコンクリート護岸などで守られた堤防が破堤すれば、甚大な水害をもたらすことは、今日の報道で知るところです。また、河川生態系も貧相になっています。もし河川流域環境の多様性を大事にした低水工事が主流になっていれば、また、1896年(明治29年)成立の河川法、1897年(明治30年)に成立した森林法と砂防のいわゆる治水三法による各事業の分離化がなければ、日本の河川景観は豊かで奥深い姿を見せてくれたことでしょう。
お雇い外国人の多く3~5年の雇用契約で本国へ帰国していますが、デ・レーケは、1873年(明治6年)9月22日に長崎へ到着して以来、1903年(明治33年)6月18日に離日するまでの30年間の長期にわたり日本の河川をつぶさに踏査し、日本の伝統的な治水工法を学びながら、河川特性にそった治水事業を立案・進言し、そして自らも設計してきました。デ・レーケは、帰国前日、日本での献身的な活躍と功労により「勲二等瑞宝章」を授与されました。余談ですが、神戸の外国人共同墓地にはコレラを患ったデ・レーケの妹と最愛の妻、日本で生まれ病弱な第三子が眠る3つの墓が並びます。墓地は1961年(昭和36年)、道路拡張工事のため居留地(現在の神戸市中央区)から、神戸市北区の再度山(ふたたびさん)の山頂近くに移されました。
上述したファン・ドールンとデ・レーケの二人のオランダからの治水技術者は、琵琶湖疏水計画に有益な助言や技術的見解をあたえることになります。また、ファン・ドールンは、琵琶湖疏水計画の先行事業となる安積疏水開削工事を指導した人物です。連載(9)で経緯や工事について紹介します。
寸言
God created the world, but the Dutch created the Netherlands.
この言葉は、オランダの国土づくりを象徴しています。日本では、長崎の出島和蘭(オランダ)商館、人口密度が高い海面下の国、堤防と干拓、風車、運河、チューリップ、木靴など教科書を通じて学習します。また、和蘭商館から欧米の情報がもたらされ、鎖国日本の幕府に少なからず影響をあたえます。医学を志した人は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書のオランダ訳本『通称、ターヘル・アナトミア』を杉田玄白が中心となり多くの協力者により完成した和訳『解体新書』に感動したことでしょう。また、通訳や翻訳を志した人は、言葉の意味や適訳の大変さを学ぶことを知ったことでしょう。スペインやポルトガルに遅れて海外に進出したオランダは、ポルトガルとの衝突があったものの、ジャワ島を拠点に東インド会社により香辛料貿易で優位を占めたことも学びます。
筆者は、半世紀前、ドイツ(当時は西ドイツ)での国際交通会議に出席するため、初めて海外出張をしました。その途中、ロッテルダムに立ち寄り、北海に面した堤防工事の現場を訪れる機会をもち、堤防工事の歴史や工法を紹介する施設を見学しました。そのときアニメで干拓事業の堤防締切について集中し思案している、ひとりの技術者が机の引出しを、引き、押すことを繰り返している場面を放映していました。しばらく見ていますと、ある考えが瞬間にアイデアがひらめいたようです。そのひらめきのアイデアとは、堤防締切工法でした。有明海水門の締切り工事でギロチンが次つぎと落とされる光景を想起していただければ、と思います。その他のことはすべて忘れましたが、ここで見たアニメだけは、今もはっきりと覚えています。アニメに登場する技術者に限らず、何ごとにも集中し熟慮し続けると、ある瞬間、良いアイデアがひらめきます。一言でいえば、電光石火。