渡邉紹裕(京都大学名誉教授・特任教授[防災研究所])
多くの方が、今年(2023年)9月に、文化審議会の答申に基づいて、農業水利施設である熊本県山都町の通潤橋が国宝に、また、石川県白山市の手取川七ヶ用水取水施設が重要文化財に、それぞれ指定されたことを、報道でお知りになったことでしょう。通潤橋(写真1)のような「土木構造物」が国宝に指定されるのは全国初とされ、注目されたようです。
私も、農業水利を専門とするものとして、この国宝・重要文化財の指定を、大変嬉しく思いました。私は、縁あって、昨年まで3年間熊本市に住み、その早い時期に、この通潤橋を含む通潤用水の受益地一帯を歩いたこともあり、その「国宝指定」を感慨深く受け止めました。今回の指定を、現地で用水施設を利用・管理する皆さんとともに喜びたいと思います。そして、文化的価値を有する重要な施設を、機能の保全を図りながら、長く維持管理されてきたことに対して、敬意を表する次第です。
この両施設の国宝・重要文化財指定については、私の友人で、ともに農業農村工学会の水土文化研究部会を運営する広瀬伸さんが、施設の概要と、指定の意義を、技術的・歴史的・文化的視点で、詳細に説明しているので、ぜひそちらをご覧下さい。
(広瀬伸「農業用水施設と文化財」,土地改良,No,323,土地改良建設協会.2023年10月.https://dokaikyo.or.jp/kaishi_new/323t_02.pdf)
さて、上記の国宝・重要文化財に指定された通潤橋と手取川七ヶ用水取水施設は、どちらも「世界かんがい施設遺産」(World Heritage Irrigation Structures)に登録された農業用水施設であることはご存知でしょうか。どちらも2014年(平成26年)に制度開始の初年度に登録されていて、今回は、改めて文化的価値が特に高いと認められたということになるでしょう。
この「世界かんがい施設遺産」は、現在、私が副会長を務めるICID国際かんがい排水委員会が認定するものです。ICIDは、灌漑の歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、灌漑施設の適切な保全に資することを目的として、この「世界かんがい施設遺産」制度を2014年に創設しました。現在(2023年11月)で、世界で161施設が登録され、その内で51施設が日本の施設です。約3分の1が日本の施設となっています。
認定の対象となる施設と登録の基準は、以下のように定められていて、ICIDでは、各国国内委員会の推薦に基づいて、専門の審査組織の判定によって国際執行理事会で認定を決定しています。基本的には、建設から100年以上経過し、灌漑農業の発展に貢献した施設、卓越した技術により建設された施設など、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設が登録されます。
世界かんがい施設遺産 対象施設 要件
(ア)建設から100年以上経過していること。
(イ)次のいずれかの施設であること。
①ダム(かんがいが主目的)
②ため池等の貯水施設
③堰、分水施設
④水路
⑤古い水車
⑥はねつるべ
⑦排水施設
⑧現在または過去の農業用水管理に機能上関係する(していた)区域又は構造物
(ウ)次の①~⑨の基準を1つ以上満たすこと。
①かんがい農業の発展において、重要な段階又は転換を象徴する施設であるとともに、
農家の経済状況の改善に加えて農業発展及び食料増産への寄与が明確である施設であること。
②計画策定、設計、建設技術、施設規模、水量、受益規模の点で最先端であった施設であること。
(いずれかの1つ以上)
③地域における食料生産強化、生計の向上、農村発展、貧困削減に大きく貢献した
施設であること。
④施設に係る着想が建設当時としては革新的であった施設であること。
⑤効率的かつ現代の技術理論・実践の発展に貢献した施設であること。
⑥設計・建設における環境配慮の模範となる施設であること。
⑦建設当時としては驚異的かつ卓越した技術の模範となる施設であること。
⑧建設手法が独特な施設であること。
⑨伝統文化又は過去の文明の痕跡を有する施設であること。
実際に登録される施設のほとんどは、上記の(ウ)の基準の複数を満たしています。日本では、農林水産省に事務局があり、私が委員長を務めるICID日本国内委員会が、施設の所有者・管理者からの登録への応募を求めることになっていて、その際「地方行政機関からの意見書」の提出が求められます。基本的には、農業用排水施設を管理する土地改良区が、関係府県・市町村の推薦を得て、応募申請することとなります。日本国内委員会では、専門の審査部会を設けて、日本からの推薦施設を決めています。
上記のように、これまでに日本の51の施設が登録されていて、その詳細は、農水省のHPで説明されています(https://www.maff.go.jp/j/nousin/kaigai/ICID/his/his.html)。登録された施設の位置や概要も説明されていますが、東京都や北海道など18都道府県では登録施設がありません。一方で、一つの府県で複数施設が登録されているところも多く、4から6つの登録施設のある静岡県、大阪府、熊本県などもあります。
なお、このICIDの登録よりも前に、これまでにも農業用水施設で「重要文化財」の指定を受けている施設も多くあります。近世以前に建設された通潤橋は1960年に指定され、近代以降の建設施設では、那須疏水旧取水施設(栃木県)が2006年、高梁川東西用水取配水施設(岡山県)が2016年、豊稔池堰堤(香川県)が2006年、白水溜池堰堤水利施設(大分県)が1999年に、指定されています。
日本では、近世に開発された水利施設群が、その後、農家を中心とする水利組織によって、行政システムとも適宜協業しながら、維持管理が営々と継続されてきています。そのことを思うと、日本中、ICIDの基準を満たす「世界かんがい施設遺産」であふれているといっても過言ではなさそうです。そして利用・管理が、土地改良区という法的な根拠を有する組織によって継続されてきているので、その申請は比較的に「容易」であると言えそうです。日本からの登録申請の数が多いので、最近は、「年間4施設まで」と制限をかけられています。そんな中、地方自治体の関心・熱意などにも左右されて、国内の申請・登録に上記のような地域差が出ているように思います。
この「世界かんがい施設遺産」は、その登録によって、灌漑施設の持続的な活用・保全方法を蓄積・継承し、研究者や一般市民への教育機会を提供し、施設の維持管理に関する意識向上に寄与することが目指されています。そして、灌漑施設を核とした「地域づくり」に活用されることが期待されています。日本では、登録施設が多くなったことを踏まえ、昨年(2022年)4月、4施設が登録されている熊本県で、第4回アジア・太平洋水サミットが開催されたのを契機にして、「世界かんがい施設遺産地域活性化推進協議会」が設立され、初回の会合が開かれ、今年(2023年)には福井で第2回が開催されました。国際連合食糧農業機関(FAO)が認定する「世界農業遺産」(GIAHS)や、農村ツーリズムなどと連携して、灌漑施設を活用した地域活性化が進められようとしています。
現在、農業・農村では、人口・農業従事者の減少や高齢化にも伴い、農業用排水施設の維持管理はさまざまな課題に直面しています。日常的な、施設の補修や、水路などに溜まった土砂・ゴミの除去や雑草刈り取り、そして建設後時間の経った施設の大規模な改修や更新の必要性などです。昨年(2022年)5月の、矢作川の明治用水頭首工(愛知県豊田市)の「漏水事故」は、記憶に新しいところで、現在では自然取水により必要取水量を取水できるようになるなど、頭首工の機能回復に向けた復旧が進んでいるようですが、「明治用水」は、2016年(平成28年)に「世界かんがい施設遺産」に登録されています。この頭首工の旧施設は、農民同士の水争いを解決すべく、約200年前に地元の民間人が計画し、1880年(明治13年)に建設されました。当時、堰堤や隧道の建設には、「人造石」という最新技術が使われて、セメントのない時代としては「極めて堅固な構造物」が建設されたことが評価されました。今回の「事故」に際し、改めて技術と維持管理の歴史的な意義を考えることとなりました。
国内で登録された「世界かんがい施設遺産」には、さまざまなものがあります。私が住んでいた熊本市とその近郊には「白川流域かんがい用水群」(熊本市・菊陽町・大津町)があります。約400年前に、加藤清正や歴代細川家によって上井手用水、下井手用水、馬場楠井手用水、渡鹿用水が築造され、約1,800haの新田が開発されました。このいくつかの用水系統が登録されています。私は、コロナ禍で遠くに出かけられなかった時に、ぶらっと歩いていました。その一つに、馬場楠井手にある土砂堆積抑制の機能を持った「鼻ぐり井手」があります(写真2)。当時の、白川からの土砂流入への対応の重要さと、水路掘削の技術の巧みさを感じるところです。熊本空港からすぐのところにあるので、機会があれば是非訪ねて頂きたいと思います。なお、ご存じの方も多いと思いますが、熊本では人工的に建造された主に灌漑を目的とする水路のことを「井手(いで)」と呼びます。取水堰や管理組織を含めたシステム全体を指すこともあるようで、滋賀県などの「井(ゆ)」と同じようなものと思います。
また、渡鹿用水では、流況が不安定な白川において、平常時の安定した用水取水と、洪水時の流量の管理を両立させるべく、1606~1608年(慶長11~13年)に、「斜め堰」である渡鹿堰(写真3)が建設されました。熊本で圧倒的な人気を誇る加藤清正が設計・施工に深く関わったとされています。取水された用水は、大井手用水路を経て、3つの開水路に分水され、築造当時は約1,000haを灌漑していました。現在の堰は1953年(昭和28年)の白川大水害後に改修されたもので、 都市化による農地の減少により、現在は熊本市南部の水田や花卉畑などの約300haに用水供給しています。近年は、「大井手を守る会」などの活動や環境整備事業などの実施によって、市内住宅地を通過する区間で、地域住民に水辺空間を提供し、水や自然とのふれあいの場として利用されています(写真4)。しかし、この水路が、「世界かんがい施設遺産」であることの案内はなく、それを知る市民は全くといってよいほど無いようです。2021年の8月11・12日の豪雨によって一部で護岸が崩れましたが(写真5)、「世界遺産」を修復するとの意識は、管理者や行政にも無さそうでした。渡鹿堰は熊本大学黒髪キャンパスの、また大井手用水路は熊本市の中心繁華街のすぐ近くにあるので、これも機会があったら訪れて頂きたいところです。
上でご紹介した施設だけでなく、すでに述べたように、日本中で、「世界かんがい施設遺産」やそのクラスの用排水施設が身近にあります。農業用排水施設は、「遺産」に登録されたといって、どこかに大事に「保管」されるものではありません。また、登録や認定などなされなくても、農業用排水施設は、食料の安定供給をはじめ、地域環境の保全などの多面的な機能を発揮するなど、地域の住民や広く国民がその役割を認識して、その恩恵に浴すことが求められると考えます。また、利用・管理に携わる人は、その労苦とともに、共同し参加し、互いに信頼して目的に貢献するという、大事なwell-being(よりよく生きること)の基礎を得ることになります。そして、冒頭で紹介した広瀬氏が強調するように、「文化的価値はもちろん、諸価値の保全を健全に図り、後世に伝えていくことは現代人の責務」です。お近くにある農業用排水施設に足を運んで、その意義や役割を見て頂き、保全・活用にお知恵を頂きたいと思います。