伊藤達也(法政大学)

1.入院と研究停止

 私は昨年(2023年)9月20日、埼玉県志木市の自宅で、脳梗塞に倒れ、今年(2024年)3月8日に退院するまでの半年間、病院並びに病院付設のリハビリセンターに入院していました(と言っても病院機能は2階、リハビリセンターは3階でしたので、治療とリハビリは一体化していましたが)。そしてこの4月から大学に復帰するために、退院の翌日(3月9日)に大学近くのアパートに引っ越し、現在、千代田区九段北のアパートから法政大学に通っています。現在は週3日大学へ通い、授業を行っていますが、まだ、左半身の大きな障害を抱えており、体の機能回復を目指したリハビリが日常生活の中心となっています。
 病気で倒れてから既に半年が経過し、教育業務に復帰してはいますが、正直、研究・教育活動はほとんど停止しているのが実際です。実際、かなりのハンディを背負った体と頭が果たしてどれだけ機能回復するかは不明ですが、回復に向けて可能な限りの努力をするつもりでいます。本稿はそうした機能回復に向けた第一歩とも言えるものです。
 実際のことを言えば、入院中、ほぼ毎日書き綴っていたフェイスブックの日記の中で、自分の専門分野に関わって書いたものを再掲に近い形で載せさせていただきました。入院中もたまには真面目なことを考えていたんですね。半年間一度も外出をせず(そもそも外出は許可されませんでした)、病院内での生活が続き、また退院後も一人での外出が困難なため、大学や病院といった必要最低限の外出以外、出かけることもしていません。ですのでここに書く内容は主に病院内で思いついたこと、考えたことをまとめたもので、決して何かを見学して、それに基づいて書いたものではありません。お許しください。
 私は1年ほど前(2023年3月)に、近年の研究成果をまとめた拙著『水資源問題の地理学』(原書房。写真1)を出版しました。また8月には梶原先生との共著『長良川河口堰と八ッ場ダムを歩く』(成文堂。写真2)を水資源・環境学会のブックレットとして出版しました。そして今年3月には蔵治光一郎編『長良川のアユと河口堰』(農文協。写真3)を出版し、私もわずかですが寄稿させていただきました。ですので現在、長い研究停止状態に陥っているのにも拘わらず、外面上は研究活動の停止をごまかすことができているのかもしれません。実際、研究停止がばれるのはこれからで、時間の問題です(笑)。下記内容はこうしたこれまでの執筆活動の結果、改めて考えるに至り、今後さらに議論を詰めていく内容と言うことができます。基本は全て河川政策、具体的内容はダム問題についてです。

写真1:水資源問題の地理学(2023年3月刊行)
写真2:長良川河口堰と八ッ場ダムを歩く
(2023年8月刊行)
写真3:長良川のアユと河口堰
(編者:蔵治光一郎。2024年3月刊行)

2.ダムしか手段を持たない国交省、真剣に考えていない国民

 日本は「河川を流れる水の量が大きく変化し、たびたび洪水を引き起こしてきました。そこで土木技術を磨き、河川を直線化して円滑に海まで流れるようにしたり、河川の上流にダムを建設して川をせき止めたりしてきました。これにより、水資源の確保や電力の開発も進めてきたのです」と、『中学校の地理が1冊でしっかりわかる本』(宮地秀作著、2017年、かんき出版)には書かれています。多分、この内容は多くの方には違和感ないでしょう。事実と言ってもよいのかもしれません。でも、でも、いったいいつまでダムのような環境破壊の権化のような存在を無条件に肯定してしまっていいのでしょうか。記述内容は事実かもしれないけど、歴史の検証に耐え、将来も正当性を与え続けられるものなのでしょうか。私にはそうは思えません。ものすごく違和感があります。
 確かに途上国、しかも貧困、衛生環境の悪さなどに悩まされ、実際、他によい案が見つけられない地域であれば、ダムは消極的な選択肢としてなかなか否定できない気もします。例えば、ナイル川流域で急増する人口や経済成長をダムなしで対応しなさいと言われても、私にはよい案は思い浮かびません。将来に禍根を残そうとも、当面の間、ダムに依存せざるを得ないと考えています。
 しかし、わが国のように、既に人口減少が進み、しかも将来にわたって人口回復が見込まれない国で、かつ治水・利水におけるダム方式の限界が強く指摘されている中で、なぜ、それでもダムを肯定的に見なければならないのでしょうか。いい加減、可能なところからダム撤去すべきなのに。ましてさらにこれからダムを造るなんて、政府はいったい何を考えているのでしょうか。「ダムによる環境破壊は大したことない」、「ダムによって追い出される人は高々数百人じゃないか」、「水余りのどこが悪い。水不足にならなくていいじゃないか」。国交省の役人はそう思っているのでしょう。延々と続くダム批判にびくともしません(苦笑)。
 でもそうした国交省のかたくなさを支えているのが間違いなく国民の意識であり、実はこちらの方はなかなか批判されないままでいるから、場合によっては、国交省のかたくなさよりもたちが悪い気がします。日本国民はマスコミを筆頭に、水不足になったり、水害が発生したりすると政府の対応の悪さや対応の遅れを批判します。しかし過剰開発で水余りになったからといって批判する人はいったいどれほどいるでしょうか。私を含めて少数ですよね(苦笑)。「でも水不足になったら困るでしょ」とダム肯定派は言うでしょう。いやいや、水不足は突然やっては来ません。ダム以外の策を考えればよいのです。「具体的にどんな手段があるの?」。簡単です。農業用水を渇水時の調整用水に位置付ければいい。「農業用水に頭を下げるのは嫌だ」。渇水対策としての農業用水利用策はその効果が抜群に大きいです。ダムに貯めた水はいつか消えてなくなりますが、日本の川から農業用水が使っている水がなくなることはありません。どれだけダムを造ってもその水がなくなった時に頼ることになるのは農業用水が取水権利を持った河川自流水なのです。日本は流域面積の割に河川流量が多く、渇水時の対策効果が抜群に大きな河川が多いだけに、まだまだダムを造りたいと思っている国交省が一番したくないことが農業用水の渇水時の対策用水化なのです。
 上で見たように、中学生の地理参考書でさえ、まだまだダムに優しい気がします。まだ世間は「大きいことはいいことだ」、「技術は自然を制御できる」、「借金はそのうち景気が回復してなんとかなる」、「まずは景気回復」、「借金増えるのもやむを得ない」、「ともかく政府が悪い」、「私には関係ない」、「国民は悪くない、悪いのは政府」、「環境破壊なんて大したことない」、「水没者には気の毒だけど私には関係ない」、「水没者は駄々をこねて巨額の水没補償金をもらってるじゃないか」って、きっと思ってるんでしょうね。こういう人たちがいつまでもダム建設を支え、日本をさらに借金だらけにしてるんですよね。長崎県の石木ダムや熊本県の川辺川ダム。愛知県の設楽ダム、そして岐阜県、愛知県の木曽川水系連絡導水路なんて、まともな建設目的が消えてしまっても、国民の関心が及ばなくて、結果的に国交省が建設を強行しようとしています。国交省もダメだけど、それを止めようとしない国民の無関心はもっとダメですね。でもこういう人たちは自分がダム建設に加担しダム建設推進システムを担っているとは絶対認めないでしょうけどね。

3.ダムの限界

 ダムによる治水はたえず「より大きな洪水時には役に立たない」という根本的な欠陥を抱えています。なのでどこまでいってもダムによって洪水から逃れることはできません。私たちが洪水から身を守るためには、結局のところ、「洪水にあいやすいところから逃げる」しかないんです。その点、人口減少が続く21世紀はものすごいチャンスであり、とにかくより安全な場所に家を建てるよう政策誘導を図るべきなんです。「今建っている家を立ち退くなんて無茶だ」と既存居住者は文句を言うでしょう。しかし、同じ理屈で山間地の居住者を立ち退きさせてきたのもその下流低地に住む居住者たちですよね。実際、山間地から立ち退く人たちは数百年の歴史を有する家の立ち退きを求められてきたのに対して、現在、下流低地に建っている家のほとんどは高度成長期に建てられた建物です。日本の家屋は数十年もすれば建て替えは必至なのだから、それに合わせて台地などの高台に引っ越せば、そもそも水害にあいやすい家屋を劇的に減らすことができ、水害による被災者、被害額を根本から減らすことができるのです。すべき対策の方向性は決まっているのです。
 やっかいなのは水害リスクが高くてたくさん人が住んでいる東京や大阪、名古屋などの大都市の低地居住地域でしょうか。それでも対策の方向性は一緒なのですが。抵抗は大きいでしょうね。あまりにも抵抗が大きければ、現居住地の周りをものすごい費用をかけてスーパー堤防で囲むくらいしか手はないでしょうね。でも実際にそのような対策を立てたとしても、低地の潜在的水害リスクは低下しませんので、やがては立ち退くしか身を守ることはできないと思います。「必要なのはダムじゃない、低地の住宅の立ち退き」です。

4.長期腐敗体制

 長らく水資源研究をしてきて「河川政策において、何でダムを手段として相対化できないんだろう?」とずっと思っていました。そして結局のところ、「国土交通省河川局がダムを手放さないからダムが相対化されないんだ」という結論になりました。ではなぜ河川局はダムを手放さないのかと問えば、それは「河川局を牛耳る役人が河川工学の専門家で、彼らはダムを造ることが学問の基本になっているので、ダムを相対化できない」という結論になりました。また、どうしてこんな組織、学問がいつまでも存続しているのかについては、正直わからないという判断ですが、例えば白井聡さんの『長期腐敗体制』(2022年、角川新書)を読むと、その理由がわかってくる気がします。彼は日本の政治について語っていますが、言ってることはそのまま権力を持った学問にも言えることであり、非常に参考になります。最近、こういう論に触れていなかったのでとても新鮮でうなずくことばかりでした。学問も自己利益を追求するだけで、自らの限界を認め、その限界と向き合う姿勢を持っていないと、中から腐りだし、世の中に害をもたらすものとなってしまいます。ダムしか河川政策を持たない河川工学の罪は重いです。

5.ダムを治水目的に特化させよう

 2022年、名古屋の河村たかし市長が市長になって以来、10数年間反対してきた木曽川水系連絡導水路(徳山ダムの水を木曽川まで運ぶ水路)計画に賛成する方針を出しましたが、その最大の理由は「建設計画から撤退してもお金とられるなら、連絡導水路を造ってなにかに利用した方がいい」でした。まあ、河村市長らしい、どうでもいいどころか害悪しかない目的ですが。ただ、河村市長以前から名古屋市は導水路計画に一貫して賛成してきており、河村市長だけが計画にためらいを持っていたという形でしたので、完全に計画中止させることは困難であったのも事実です。だったらどうすべきであったのか。
 やはり大元の徳山ダムの利水目的そのものをなくさなければ、その水を使うために連絡導水路が必要だという理屈をなくすことはできないんです。徳山ダムの利水目的(水資源開発機能)がなくなれば、その水を運ぶ導水路のそもそもの目的は消えてしまいます。じゃあ徳山ダムの利水目的はどうすればいいのか。簡単です。全部治水(洪水防御)目的にしてしまえばいいのです。治水目的ならば、いちいち水を運ぶ水路を造らなくてもいい。ダムがあるだけでいい。
 徳山ダムがこれから造るダムだとしたら、治水目的であろうと、果たしてダム建設が適切かどうか、しっかり吟味する必要があります。しかし、徳山ダムは既に造ってしまったダムですので、追加費用をかけずに、全部治水目的にすることができます。近年、降雨の激化現象が話題になり、治水対策の更なる整備が求められている状況からして、ダムの治水機能を高めることは誰も反対しないはずです。お前は「ダムは治水に役立たない」と上で言ってるじゃないか、と批判する人がいるかもしれませんが、この際、しょうがない。ダムに全く効果がないわけではないので、低地からの人々の立ち退きが完全に終わるまで、既に建設してしまったダムは治水目的で有効利用すればいい。
 これに対して国交省も反対できませんよね。水余りで困っている自治体は全国にたくさんあり、造ったけど使っていない利水目的のダムは、全部治水目的にして、過去の不良債権を清算しちゃいましょう。この政策に反対する自治体はないはずです。みんなが喜ぶ政策。なんかすごくいいと思いませんか。河村たかしはこのことを言うべきだったんです。水余りで困っている全国の自治体の先頭に立って、それら自治体の問題解決に努める。それができれば、改めて国政に戻っても、とても有効な政策を立案し、解決に向けての実行能力のある政治家として評価されたのではないでしょうか。
 写真4は八ッ場ダムを上流側から見た風景です。八ッ場ダムも、私は撤去した方がいいと思うダムなんですが、すぐの撤去が困難なら、治水専用ダムにして、ついでに水陸両用バスの観光政策を進めれば(写真5)、ベストじゃなくてもベターな答えになるのでは。徳山ダムも治水専用ダムにして、時々観光放流すればいいんじゃないかな。平成の3バカ事業であることは免れないけど。残りの2バカはと問われれば、私は間違いなく長良川河口堰と八ッ場ダムと答えます。その理由については伊藤・梶原『長良川河口堰と八ッ場ダムを歩く』(成文堂。前出写真2)を読んでみてください。

写真4:八ッ場ダムを上流側から見た風景
写真5:八ッ場ダムで運行されている水陸両用バスの宣伝看板

 また、長良川河口堰の総合、総合的な分析結果として蔵治光一郎編『長良川のアユと河口堰』(農文協。前出写真3)を是非お読みください。長良川河口堰は30数年前に問題化し、全国イシューとなりましたが、問題はいよいよ深刻化しています。もちろん、日本の場合、ダムや河口堰建設に伴う環境問題はなかなか分かりやすくは現れてくれませんが、自らの人生をかけて問題を追跡し続ける研究者らがいるからこそ、問題の確認、追跡、告発、解決策の提示ができているのだと思います。その点で長良川河口堰は稀有な例と言えるでしょう。日本の研究者たちも捨てたもんではない(笑)。


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